Phantasy Garden

真っ暗な部屋の中で、頭まで布団を被って、静かに息を潜めて、ただ時間が過ぎるのを感じていた。時間が過ぎるのを待っているんじゃない。待つというのは、その先に何かしらの目的があって初めてそう思うようになるから。私は、この先の未来に何か期待しているわけじゃないから。

子供の頃は、よくこうして泣いていた。布団の中で、寂しさを紛らわせるために、こっそりと。それはちょっとしたことで仲違いをしてしまった友達のことを想ってのことだったり、あるいは引っ越しで仲がよかった友達とすぐに別れてしまったことを嘆いて、私は泣いていた。

けど、今は違う。泣きたいわけじゃない。寂しいわけでもない。子供の頃のような単純な感情で生きられなくなったせいか――この感情に名前を付けるのは難しい。

後悔。呆れ。疲労。無力感。厭世観。無情――そんな言葉をまとめたような、負のイメージを持った感情。子供の頃とは明らかに違う気持ち。迷惑をかけたくないから死にたい、とさえ考えてしまう。

だけど死が迷惑じゃない、なんて嘘だ。動物ならともかく私は色々な権利と義務を持っている、面倒な――人間だ。それら一切を放棄するだけでも、様々なことが複雑に絡み合って変化することくらいは分かる。誰にも何にも影響を及ぼさず、この世界から消えてしまうなんてことはあり得ないんだ。

だからというわけでもないけど、私が死を選ばなかったのもそんな理由があるから――逆に言えば、そんな理由しか残っていなかった。何も望むことが無くても、生きていかなければならないという悲劇。そのためにしなければならない数々の後悔。迷惑をかけたくないのに、生きているだけで迷惑をかけてしまう矛盾。

だけど、その理由さえも無為に等しいものだと思ってしまったら――。

端的に言えば、それが『絶望』ということなのかもしれない。

夏休みが終わって、既に一週間が経とうとしていた。九月に入ってもその蒸し暑さは相変わらずだけど、盛夏の時のような入道雲は見えなくなり、空が徐々に秋めいたものになってきている。私が歩みを止めても、世界はゆっくりと動いていく。わずかに見えるカーテンの隙間から、その動きが見えたような気がした。

そうなんだ――私一人がこの世界からドロップアウトしたところで、何も変わらない。夏休みが終わっても学校に来ない私を、クラスメイトは多少不思議がるかもしれないが、その程度のものだろう。もしかしたら単に病床に臥せっていると、周りに告げている嘘が伝わっているかもしれない。いずれにしろ、私が登校していないという事実は変わらない。そのうち出席日数が足りなくなって留年するくらいが関の山だろうか。

そう考えても――以前の私だったら信じられないことだけど――どうしてもその実感が伴ってこなかった。自分自身のことなのに、まるで誰か他人のことを考えているような心地になる。以前の私には、規則や規律や約束は当然守るべきものであり、それを破ることは何があっても許されない絶対的なもの。それに背くという行為が――事の大小に関わらず、非常に大きな苦痛だった。だからこそ去年の今ごろに、連日夜更けまで学園祭の準備をやっていたんだから。与えられた課題は、相手が望むような形で、望む期間内に完成させるという約束。自分の身体を壊してまで、私はその約束を果たそうとしていた。

今は、とてもそんなことなど考えられない。何もかもがどうでもいいという気分になる。授業を放棄したところで、なんとも思わないようになっていた。たとえこのまま高校を退学することになってしまったとしても構わないというのが、今の私の気持ちの大半だった。その後は知らない。知りたいとも思わない。それが原因で親に勘当されて身寄りがなくなったとしたら――けど、それでもいいと思う自分がいる。そうなったら、それこそ本当に、誰にも干渉されることなく消えることが出来るだろうから――。

とんとん――っと、ドアをノックする音が思考の隙間に入り込んできたのはそのときだった。返事も待たずに部屋に入ってきたのは、パートに出る前のお母さん。

「茂美、まだ具合が悪いの?」

詰問するような口調。私はベッドに横になったまま、無言でお母さんに背を向けるようにして視線を外す。

「具合が悪くないなら学校行きなさい。もう一週間も学校を休んでるのよ?」
「……頭、痛い」

ぽつりと呟く。お母さんはわざとらしい溜息をついて、

「具合が悪いなら病院へ行きなさい。いつまでも学校を休むわけにはいかないでしょ」
「病院は行きたくない……」
「だったら学校へ行きなさい。病院にいくほどのものでもないならね」

呆れたような、嫌味を含めた言い方だった。お母さんも分かっているんだろう。私が仮病を使っているんだということを。

「とにかく、早く起きて朝ごはんを食べてちょうだい。お母さんはもう時間だからパートに行くけど、自分の分の後片付けはしておいて」

そう言い置くと、お母さんは部屋を出て行った。ドアを乱暴に閉めたわけじゃないけど――その音が一際煩く聞こえたのは気のせいじゃないだろう。顔を見なくたって不機嫌になっていることくらいは分かる。

上半身を起こして、窓の外を見やる。カーテンの隙間から見えるほんの数十センチにも満たないその世界で、色んな人が行き来している。今の時間帯なら登校中の学生たちが多いようだった。ふと時計を見れば、針は八時半を指していた。そろそろ始業の時間が近い。まずもってそう考えてしまうのも、今までに身についた習性のせいだろうか。

「もう、何もしたくないんだけどな……」

ベッドからゆっくりと立ち上がる。何もしたくないはずなのに、身体は未だに朝のやるべきことを覚えていた。躊躇いながら、溜息をつきながら、疎ましい制服に袖を通していく。私は一体何がしたいんだろうか。制服に着替えたところで、今更登校する気になんかなれないのに。

着替えを済ませ、夏休みが明けてからも整理していない学校用の手提げ鞄を持ち、部屋のドアを開けて階段を下りていく。ちょうどお母さんが家を出るところだった。こちらに気づいて顔だけ向き直り、

「それじゃ茂美、お母さんはもう出るから。学校に行くならいくで、病院にいくならリビングのテーブルの上に保険証を置いておいたから、それを持ってね。お金もそこに一緒に置いてあるわ」
「……分かった」

私の返事も聞こえたかどうか、足早にお母さんは玄関のドアを開けて出て行った。確かに、いつもよりちょっとだけ出る時間が遅れている。私を起こしに来たりして、時間がなくなったんだろうけど。

それ以上、感慨も湧かなかった。玄関から洗面所へと足を向けて顔を洗い、リビングに向かって言われていた通りのものがテーブルにあることを確認する。健康保険証と、五千円札。あとはまだ片付けられていない朝食が並べられている。今日のメニューは、サラダとトースト、ベーコンエッグとコーンスープだったらしい。

「…………」

音もなく、佇む。しばらくして、壁に掛かった時計が九時を告げる。これが今の私の生活なんだ。誰もいない家で、冷めかけた朝食を食べ、与えられた時間を無為に過ごしてゆく。

そう、無為だってことも分かっている。こんなことをしていても、これから先どうにかなるなんてことは考えてもいない。テレビとか漫画とかのように、この境遇から唐突に助け出してくれる『何か』を期待することもない。そんな期待が幻想でしかないことは、身にしみて分かっているから。

だから、虚しい。そういったことが起きないんだって、有り得ないことなんだって、頭が自動的に判断してしまう程度には現実世界と付き合ってきていたんだ。いっそのこと、盲目的にそれを信じきれたほうが幸せだったのかもしれない。幼い子供のように。

何をすればいい? どうすれば私は私自身を好きになることが出来る? 解答者は――自分しかいない。

部屋に閉じこもってからずっと考え続けている問い。それに対して数え切れないほどの答を、その間に出してきた。しかし、そこで得られた結論は『私には分からない』ということ。自分しか答えられないことなのに、満足の行く解答を出すことができていない。

テーブルの食器皿に乗ったパンを掴み、一口大にむしって口の中に押し込む。レーズン入りの甘いパンのはずなのに、味は全くといっていいほどしなかった。いつもならちょっとは食べていたんだけど、今は全くといっていいほど食欲が湧かない。そういうときはこんなにも味を感じないものなんだ――と他人事のような驚きを感じながら、朝食を片付ける。勿論食べるんじゃなく、サラダはラップをかけて冷蔵庫に入れ、スープはコンロの鍋の中に戻す。ベーコンエッグとパンは――勿体無いけど捨てるしかない。あとは食器皿を洗って、それを片付けておしまい。

それ自体はいつもと大して変わらないことだった。一応、部屋に閉じこもっていても食事はリビングで取っていた。どうせ食事を取るときはいつも一人だったし。

テーブルに置かれた保険証と五千円札を見やり、鬱々とした気分になる。これを持って病院にいくわけでもないけど、とりあえず鞄の中からお財布を取り出してその中にしまう。

本当に、何をやっているんだろう、私は。

意味もなく制服に着替えて、意味もなくお金と保険証を持って、私は何がしたいんだろう――けど。

薄々と感じ始めている。何も考えずに動く身体が何をしようとしているのか。自分の身体なのにそんな言い方もするのは変かもしれないけど、無意識の欲求というのが身体を動かしているんだ。気がついたら身体が動いていた、とかいう表現で表されるような。私が思考している間に、その無意識が私の身体を支配する。その行動の意味を。

――私は今日、この世界からいなくなるのかもしれない、と……。

テーブルに突っ伏して、うとうとと微睡んでいると、時計が――何度告げたかは覚えていないけど――刻を告げる音がする。眠気ではっきりしない頭を上げると、時計の短針は既に午後の二時を指していた。朝、起きだしてからもう五時間が経過したらしい。

微睡みに身を任せるのは簡単だった。朝食を片付けた後でも眠気は多少残っていたし、することも何もない。椅子に座ってテーブルに伏せていれば、容易く現実から目を逸らすことが出来た。

けど、それが果たして良かったのかどうかは分からない。何かと理由を付けて、行動することを拒否しようとしていただけなのかもしれない。

「…………」

テーブルの上に置きっぱなしにしていた鞄をもち、椅子から立ち上がる。貧血か、起き抜けの低血圧のせいか――少し目眩がしたけど、一度深呼吸してから玄関へと向かう。靴を履き替え、慣れた手つきで鍵入れから家の鍵を持って。

「ちょっと、暗いかな……」

朝方は晴れていたものの、微睡んでいる間に雲が出てきていたようで、夏の午後の日差しの強さはほとんど感じられなかった。その代わりに蒸すような湿気が鬱陶しい。生暖かい風がぞっとしない気持ちにさせる。

実をいえば、外に出た理由は特になかった。あのまま部屋に戻って、また同じ生活を繰り返すことも出来たかもしれない。だけどそれは、特別に魅力的なものでもなかった。むしろ監獄の中に戻るような心地を覚える。自分の罪をひたすら後悔する様は、まさに囚人と言えるかもしれないけど。

いや――違う。私はもう、あそこにも戻れないことに気づいたんだ。

今日の朝の、お母さんとのやり取り。あのままだったら、結局両親に迷惑をかけてしまうだけだということに気づいてしまった。私がああやって閉じこもっている限り、ずっと。だったらどうすればいいんだろうか? お母さんが言うとおりに生きていけばいいんだろうか?

分からない――どんな生き方を選んでも、結局後悔してしまう。それが、怖い……。

私は怖がっているんだ。たぶん、何もかもから。色んなことに失敗して、挫折して――生きることが怖い。どんなに強がっても、どんなに良い成績を取っても、いつかそこから転落していくんじゃないか。自分が自分として認められなくなるんじゃないか。

それがおそらく、私の臆病な性格の最も大きな原因。崖っぷちに立たされたまま、どうにか生きてきていただけで――私は足を踏み外してしまった。そうして挫折を知ることになったんだ。

今はもう、両親にも会えない。会いたくない。私が挫折して、それを見た両親が落胆して、それを私が見て一層挫折感が強くなって――と際限なく惨めな気分にさせられてしまう。期待を裏切ってしまった、その背徳感が私を苛むんだ。

だから、もう戻れない。あの部屋にいたら、否が応でもそれを思い知らされてしまうから。それに気づいてしまったから。だから私は、お母さんが帰ってくる前に家を出ることにした。とりあえずは、学校か病院のどちらかに行っているのだと思ってくれるだろう。

「――とはいうものの……」

行くあてがあるわけではなかったので、すぐに途方に暮れてしまった。今更登校する気も起きないし、かといってまだ学生が放課後になって出歩くような時間帯でもないので、この制服を着たまま彷徨うのはあまり都合が良くない。小さな町だから知らず知らずのうちに顔を知られていることもあるし、それで学校に連絡されてしまうのも困る。

ふと、霧島診療所にでも行ってみよう――とりあえずの理由にはなるから――と思って足を向けてみたものの、診療所のドアには『往診中』という札がかけられていて中には誰もいないようだった。ほんの少しの落胆と諦めと――どこか安堵したような複雑な気持ちを感じながら、診療所を後にする。

町を歩き回って一時間ちょっと、というところだろうか。幸か不幸か、道中では誰にも出会うことはなかった。商店街には、その端の方にある霧島診療所に行っただけだったし、それ以外ではなるべく人目を避けて歩き回っていたから当たり前の結果ではあるのかもしれないけど。

その果てに行き着いた場所は、町の中心から少し外れたところにある寂れた駅。少し前に経営が破綻して廃線になったらしく、人影は見あたらない。折良く休憩するのに向いているベンチなどもあり、町を歩き回って疲れた私にはちょうど良い休憩場所だった。駅の入口が西向きになっていてその入口の横にベンチがあるので、午後の時間帯は駅の軒で夏の日差しを遮ることは出来ないけど、今は空が厚い雲に覆われている。おかげで夏の強烈な日差しを浴びずに足を休めることが出来たんだけど、だんだんと空の雲行きが怪しくなってきていた。夕立が近いのかもしれない。

その駅のベンチがまだ使われているかのように綺麗な状態であることに少し訝しがりながら、いい加減持ち疲れてきていた鞄を隣に置きつつ座る。

結局のところ、こうやって町を歩き回ってみても何も変わることはなかった。歩いている間は何も考えずに済んだだけで、問題を解決する糸口も思いつかなかった。

これから私はどうすればいいんだろう……。

私の問題の、根元的な問い。これからの将来、人生設計、進学や就職、高校の生活。さしあたっては当面の行動も含めて。今の私にはどこにも居場所がなかった。自分の家さえも飛び出すことになった。

家出。たぶん――いや、私は今確実にその状況の中にいる。けど、相変わらずそれが他人事のように思えて仕方なかった。私自身の問題という実感がまるで湧いてこない。

しばらくうなだれたまま考え込んでいると、ゴロゴロと雷の音が鳴り始めた。少しずつ強くなる風に木の葉がざわつき始め、空に稲光が疾る。目の前の道が雨に濡れるまで、そう長い時間はかからなかった。

瞬く間に降り始めた雨と雷が轟かせる音を聞きながら、私はまた自分の思考に戻る。

家を出て一人で生きていくということは、何もかも自分で面倒をみなければならないということ。今みたいな雨が降っても、屋根の下に居られるとは限らない。その日食べるものさえあるかどうか分からない。

お金は幾らか持ってるから今日明日の食べ物くらいはどうにかなるけど、どう考えても一ヶ月も経たないうちに底を尽くことになる。その後はどうするのか――着替え一つさえ、持っていないのに。

「やっぱり……私って馬鹿だよね……」

言葉が漏れ出すように、私は呟いていた。心の奥底に押し込んでいた蟠りが、溢れ出てくるように。

「いつもいつも……分かっているのに、行動できない。うわべだけしか取り繕えない。誰かから期待されることが、もう辛いよ……」

でも、そうしないと私という人間に存在価値がない。期待されること以外のことをすれば、たちまち冷淡な視線に晒される。そうなることへの恐怖が、私を支配する。道を外れたら、戻ってくることなんかできないんだ。

「私はどうすればいいの……。何をして生きていけばいいの……」

自分一人で生きていけるほど、私は強くない。経済的な面でも、精神的な面でも。こうやって家を飛び出してもいつかは連れ戻されるだけだろう。

「……もう、嫌だよ……」

時折強く吹く風が、軒下にいる私のところまで雨を打ちつける。この駅の軒下はそれほど長くないので、少し風が吹けば雨が吹き込んでくるんだ。夏の冷雨を帯びた風は、同じ夏の空気とは思えないほどに冷たい。だけど、それでも構いはしなかった。頬を滴り落ちる雫が、私の涙なのか雨なのかさえ私は分からない。

私は――もう生きる気力がない。そう思って、家を出てきた。あてもなく彷徨っているときも、頭のどこかで常にそれを意識していた。

私の死に場所。この先ずっと迷惑をかけるくらいなら――その迷惑を最後にして、私はこの世界から消える。気晴らしのために家を出たんじゃなく、自分の最後の場所を見つけるために。私は家を出てきた。

そのはずなのに。町を彷徨っているうちに、私は感じ始めた。『死』という恐怖を。家を出てから幾度となくその機会はあったけど、何一つとして実行に移すことが出来なかった。今まで色々言い訳して選ばなかった『死』とはじめて向き合って、その怖さをようやく思い知ったんだ。生きていくことに挫折したからといって、死を簡単に選ぶことなんか出来ない。私は、生きることにも死ぬことにも怯える臆病者だ。

むしろ――それをどこかで直感的に感じていたからこそ、今まで死を選ぶことが出来なかったんだろうか。

「……情けないよね。私……」

いつの間にか足元にいた黒猫が、こちらの呟きに応えるかのように、みゃーと鳴き声をあげる。どうやら野良猫のようで、首輪はしていなかった。突然の夕立に降られて、たまたまここに雨宿りをしにきたというところだろうか。ベンチの影で、前足を丁寧に舐めて毛づくろいをしていた。

黒猫はこちらの視線に気づくと、毛づくろいを止めてこちらへと視線を合わせる。どことなくまだ子猫に近い気がしたが、その視線は私なんかよりも遥かに鋭かった。今日明日をしたたかに生き抜いていく意志を秘めた、強い眼差しだった。

私が家を飛び出せば――この子と同じような生活を強いられるということなんだ。明日どころか今日の飢えさえも凌げるかどうか分からない、その日暮らしの生活。雨に降られて身体を壊しても、ただひたすらに耐えるしかない。一瞬一瞬がその次へと繋げるための行動。

甘えていた――と思う。今までの生活が嫌で衝動的に飛び出したものの、その生活を外れた道の先はさらに過酷な生活か、もしくは死か。私にはそのどちらも選ぶ勇気が――覚悟がなかった。こんな小さな猫だって、明日のために立派に生きているというのに。

滴り落ちるしずくを見つめ、その視界の隅で黒猫が不意に動くのが見えた。視線を猫のほうにやると、雨の降る道――その先の何かを見つめている。私もつられて顔を上げた。

「あ……」

少し滲んだ視界の奥に、傘を差してこちらへと歩み寄ってくる人影が写る。目を凝らしてみると、それは制服姿の遠野さんだった。片手に傘を、もう一方に手提げ鞄を持って悠然とした瞳でこちらを見つめている。

「遠野さん――」

漏れた言葉に、それ以上の意味はなかった。呼びかけでもなんでもない、単純な呟き。彼女がそれに気づいたかどうかは分からない。ただ口を閉ざしたまま、彼女は私のほうへと歩いてきていた。

「…………」

私の目の前で、彼女の足が止まる。私は彼女に挨拶の言葉をかけることすら躊躇うぐらい、気が気でなかった。以前、あんな別れ方をしたまま何も接触がなかったんだから冷静でいろという方が無茶な相談だ。視線を交えることさえ、私には苦痛なのに。

「……お久しぶりです、川口さん」

遠野さんの、変わらないのんびりとした口調。それが私にはとても苦しい。私は遠野さんの言葉にも返事をせず、ただ俯いていた。これからいったい何を言われるだろうか。罵詈雑言を浴びせられたとしても、私はそれに反論することはできないんだけど……。

「――はい、どうぞ」
「……え?」

突然目の前に差し出された、イルカの髪飾り。私が神尾さんに買ったものと同じだった。一瞬、遠野さんが私と同じものを持っているのかと思ったけど――。

「先日、堤防でお別れしたときに落としていかれたんですよ」

はっと顔を上げて彼女を見ると、彼女は少しだけ微笑みながらそう言った。

そのためだけにわざわざ? まさか――そんなわけがないと思いながらも、私はそれを受け取るために黙って両手で髪飾りを包む。遠野さんはそっと手を放すと、傘をたたんでベンチの水滴を払い、私の隣へと腰をかけた。

奇妙な――遠野さんといるときはいつもの――沈黙が訪れる。私は彼女に謝らなければならないのに、どうしても言葉が出てこない。落し物を届けてくれたことにさえ、私は何もお礼を言えていないのに。

「…………」

遠野さんは静かな人だった。そしてどこまでも寛容な人だった。私がお礼を言わなかったことに対しても、それをさも当然のように受け止めている。以前の一方的な私の八つ当たりを責めることもせず、ただ静かに、前を見つめていた。

「どうして――」

思わず、言葉が喉から漏れる。それに気づいた遠野さんが視線をこちらへと向けてきた。それさえも誤魔化してしまおうかとも思ったが――あのとき聞けなかったことを、私は思い切って聞いてみる。

「――どうして、そこまで私のことを?」

放っておくこともできるはずなのに。知らないふりをすることもできるはずなのに。彼女がそうする理由なんか、あるはずがないのに。

「……いけませんか?」

彼女はわずかに逡巡するように目線を下げたが、すぐに私を見据えて、

「クラスメイトを心配することが、そんなにいけないことでしょうか?」

彼女はいつもと変わらない表情で、当然の疑問とばかりに言ってきた。静かだけど、芯のある声。

私は何も答えられなかった。どんな罵り言葉よりも、それは私の心に響く。否定的になっていた私を一蹴する、優しい言葉。

嬉しかった。彼女の慈愛に満ちた優しさが、私にはとても。

それと同時に、私自身がどれだけ醜い存在なのかを改めて思い知る。自分でやってきたことの報いを、その罰を受けたことの八つ当たりを他人にしてしまっていたんだから。

「……ごめんなさい」

自然と、その言葉が口から漏れてくる。心から私は遠野さんに謝りたかった。そして、感謝したかった。

「分かっていたの……。この前、遠野さんに向かって言った言葉は、全部自分自身にも当てはまるって。ただの八つ当たりでしかないって」

何日も経って、ようやく口にできた。

「本当に、ごめんなさい……」

言い訳しかできない自分の不甲斐なさが情けなかった。髪飾りを握った手に、力がこもる。もしかしたら私は泣いているかもしれなかったけど、雨と混じっていてよく分からなかった。ただ、胸の奥底から込み上げてくる嗚咽はどうしようもなかった。

遠野さんは、私の言い訳を聞いても何も言わなかった。だけど下手に慰められるよりずっといい。彼女がどう思っているのかは分からないけど、結局それは彼女なりの気遣いなんだと思う。神尾さんのお葬式の前日のあれも、彼女の優しさだったに違いないから。

「――その髪飾り、神尾さんへの贈り物だったんですか?」

唐突に、彼女はぽつりと呟いた。俯いていた顔を上げて彼女のほうを見やると、ちょうど彼女もこちらを見たところだったようで、視線が一瞬交錯する。

「…………」
「…………」

なんとはなしに気まずくなって、すぐに視線を足元に落とす。遠野さんも気づいているんだろう。いまさら隠したところで意味はないとも思うんだけど、その質問に答えるのを躊躇ってしまった。

この髪飾りをどうするべきなのか、私にはもう分からない。それこそ、いまさらこれを見たところで何もできないんだから。

雨を吸って重くなったわけではないだろうけど、手のひらに乗ったそれは一段と重く感じられた。

「川口さん――」

遠野さんが私を呼ぶ。あの優しい微笑をたたえながら。

「神尾さんの家に行ってみませんか――?」

雨はまだ降り続いていた。

もう、ここには来ることなんかないと思っていたのに――。

遠野さんの傘に入れてもらい、私は神尾さんの家までやってきた。あの駅からの道中では二人とも黙りこくったままで、ただ傘を叩く雨音だけが聞こえていた。

どうして私は、ここに来ようとしたんだろうか――自分に問いかけてみても、明確な答えが出るわけじゃない。遠野さんの誘いになんとなく出た言葉が、『行きたい』だった。それが私の意志なんだろうか。

胸中で苦笑する。自分に問いかけてみても答えが出ないことなんて、ここ数日で分かりきったことだった。今更自分の行動に答えが出るならば、私は私に対して苦しむことなんかなかった。もっと楽観的か――あるいは傍若無人か。悩むことさえ馬鹿らしく思うかもしれない。それが幸なのか不幸なのか、私には分からないけど。

そもそも何故、遠野さんが神尾さんの家に行こうと誘ったのか、それさえもよく分からなかった。もっとも理解しやすい理由は私のあの髪飾りの件だけど、遠野さんが神尾さんと親密な仲だったかどうかということは本人が否定しているし、彼女が行く理由にはならないと思う。

まぁ、彼女の考えが分からないというのが今に始まったことではないというのも重々承知しているつもりなんだけど……。

古めかしい呼び鈴の音が雨の空気に響き渡り、思考が現実へと引き戻される。数秒ほど待つと扉の向こうに人の気配がして、やがて戸が開いた。

「はいはい、誰や――っと、ん? 遠野さんやないか」
「……こんにちは、晴子さん」
「なんや、今日はどないしたんや。まだ四十九日には早いで」

戸を開けて出てきたのは、神尾さんのお葬式のときにうなだれて座っていたあの女の人だった。勿論お葬式の時の喪服とは違って、Tシャツにジーパンというラフな格好。覚えている記憶と照らし合わせて、同一人物とは思えないほど雰囲気が違っていたが、紛れもなく彼女は神尾さんの――。

「――ん、今日は連れがおるんか?」

彼女――晴子さんの視線が私に向けられる。

「あ……私は神尾さんと、クラスメイトの……川口茂美といいます」

その声が少し緊張しているらしい、というのが自分でもよく分かった。晴子さんは私をしばらく見つめた後、口の端から八重歯を少しだけ覗かせながら、

「ま、こんなところで立ち話もなんや。雨も降っとるし、中に入りー」

朗らかな笑みを浮かべ、そう言って家の奥へと姿を消していった。本当に、彼女があの時に見た女の人なのかどうか戸惑うほどに、清々しい笑顔だった。

遠野さんは傘をたたむと、『お邪魔します』と言って軽く頭を下げ、家の中へと入っていく。私もそれに従って神尾さんの家へと入る。靴をそろえると、遠野さんと一緒に居間へと向かった。

その時点で――いや、むしろ始めから奇妙だとは思っていたけど、どうも遠野さんは晴子さんと顔馴染みのようだった。家の中に通されたものの、晴子さんは特に指示も案内もせずに家の奥のほうに行ってしまったし、遠野さんは遠野さんで幾度も繰り返したようなやり取りといわんばかりに慣れたような雰囲気で居間へと向かった。晴子さんと遠野さんの会話も、親しい間柄で話すような感じだったし。

遠野さんと神尾さんはそれほど仲がよかったというわけではない、ということから考えても異質なやり取りとしか思えない。辻褄を合わせるなら、遠野さんは神尾さんのお葬式の後に晴子さんと顔馴染みになったということになるけど、遠野さんがそうする理由はさっぱり見当がつかなかった。

とりあえず、理由はどうあれ私だけが玄関で呆けたように佇んでいるわけにも行かないし、そのまま遠野さんの後についてきてしまったけど。

神尾さんの家の居間は外観から想像できるとおりの和室で、少し昔の懐かしさを思い出させるような印象だった。お葬式の時は葬儀用の道具が色々とあったし、私自身もそこまで落ち着いて眺められるほど心の余裕がなかったから、これが神尾さんの住んでいたところなんだという実感を今になってようやく覚える。

テーブルを囲むように綺麗に並べられていた座布団に正座し、向かいに座った遠野さんに訊いてみる。

「あの、遠野さんは晴子さんとお知り合いだったんですか?」

それは質問というより、確認の意味合いが強かったが。遠野さんがこちらに顔を向けて視線を合わせると、

「遠野さんがここに来るようになったんは、観鈴の葬式の後や」

声に振り向くと、晴子さんがお茶を載せたお盆を持って居間に入ってきたところだった。テーブルにお盆を置くと、湯気を立てたお茶で満たされた湯のみを並べる。

「あいにくやけど、上等なお茶請けは切らしとってな。煎餅がちょっとあるだけなんやけど、我慢したってや」
「あ、おかまいなく……。ありがとうございます」

二人で礼を言い、差し出されたお茶を受け取る。まだまだ暑さが残っているとはいえ、初秋の雨に打たれて少し冷えた指先を温めてくれる心地よさが私の身体に沁みこんでくる。

「遠野さんが初めてここに一人で来たときも、今日みたいな雨が降っとったなぁ……」

お茶を一口飲んでほっとすると、晴子さんがあたかも数年前のことを語るような懐かしい目をして、ぽつりとそう呟く。遠野さんのほうを横目で窺うと、伏し目がちに沈黙を保っていた。

やっぱり――遠野さんが神尾さんの家に来ていたのは、神尾さんのお葬式の後ということで間違いではなかった。遠野さんが何を考えているのか想像することはできないけれど、それでも遠野さんなりの何かしら理由がなければそうすることもなかったはずなんだから。訳もなく、神尾さんの家に来るはずはない。

でも、それを私が興味本位で訊くのはどうかと思う。そんなプライベートなことを尋ねるのは良くないけれど――。

「――でもまぁ、今日の用はアンタのほうか」

そう言って晴子さんが視線の先を向けたのは、遠野さんじゃなくて私だった。私が驚いて遠野さんのほうを見やると、遠野さんが小さく頷く。

「……川口さんの言葉を、聞かせてほしいんです」

予想外のことに、少しだけ顔が強ばるのが分かる。遠野さんは神尾さんの家に用があった訳じゃなくて――私を連れてくるだけだった? 私は遠野さんが神尾さんの家に用があるんだと思ってついてきただけで、そのついでに――というくらいにしか考えていなかったんだけど。

晴子さんは遠野さんの顔色を窺っただけで、遠野さんが何を考えているのかを理解していたようだった。彼女らは私が何か重大なことを発表しようとしているかのように、神妙な面持ちで私を見ている。

けど、その期待には添えない。私の用といえばこれくらいしか――。

テーブルの上に、遠野さんから受け取った髪飾りを置く。晴子さんがそれに少しだけ眉をしかめて、

「これは?」
「……私が七月末に家族旅行に行ったときに買ってきた、神尾さんへのお土産です。夏休みが終わったら、渡そうと思ってて……」

それは嘘でもあり、真実でもある。始めはすぐに渡そうと思ってて、でも自分の都合で渡す時期を延ばそうとしていたから。最終的には夏休みが終わってから、と思っていた。けど、それは言い訳でしかないんだ。この期に及んでまで、私は本当のことを言えない――。

晴子さんはそれを――物珍しそうな様子で――しげしげと眺めていた。しばらくは何も言わずにただ眺めていただけだったけど、唐突に口の端を弛めて、

「……まさか、あの娘にお土産を買ってきてくれる子がおるなんてなぁ」

だけど、少しだけ寂しそうな表情で、

「アンタの名前、川口さんやったか。ありがとうな――観鈴、喜ぶと思うわ」

何事もなかったかのように、晴子さんがニッと笑う。

それを見た瞬間、私はとてつもない罪悪感に襲われた。お土産を渡せなかったことは、私の落ち度でしかない。それを感謝される謂われなんかどこにもないのに。

「……違う――違うんです」

思わず呟いた自分の声にはっとして、俯いていた顔を上げる。後悔か、懺悔か、私はつい本音を口にしてしまっていた。こんなに近い軒先の雨音さえも遠くに聞こえる雰囲気で、その嘆きを耳にするのは容易い。

それは勿論のこと、彼女らにも聞こえていたんだろう。私を見つめる視線は、さっきよりも訝しさを含んだものとなる。

「――何が違うんや?」
「…………」

晴子さんが当然出てくる素朴な疑問を口にする。問い詰めるような声音ではなかったけど、私はその問いに答えるのを躊躇ってしまう。だけど――。

「川口さん……」

遠野さんの呼びかけ。二人の視線が――私には辛い。

「聞かせてくれへんか――? アンタが何に苦しんでるんか……」
「…………私は――」

言葉が止まる。私は、言わなくちゃならない。分かっている――私がしなければならないこと。どんな風に詰られても、私はそれだけのことをしていたんだから。

だから――。

「私は、どうしようもない臆病者です。今でさえ、そうしなければならないのに、私は自分の胸のうちを語るのが怖いんです。臆病者だったが故に、私が犯してしまった過ち――」

私は訥々と、胸の奥の想いを語り始める。彼女の――神尾さんの代わりに、彼女をよく知る人へ。

「神尾さんと出会ったのは、四月の始業式のときです。そのときは名前の順で席に着いていたので、私は神尾さんのすぐ後ろでした。クラスに話しかけられる友達がいなかったので、神尾さんと話してみようと思ったんです。彼女は私に話しかけられてひどく驚いたようでしたが……」

あの滑稽なやりとりを思い出し、苦笑して少しだけ口の端を歪める。

「その日の帰り道に、私は神尾さんと学校の前の堤防で喋っていました。そこで神尾さんの発作が起きて、驚いた私は堤防から足を滑らせてしまい、頭を打って病院へと運ばれたんです」
「……そか。アンタがあの――」

視線を投げかけてきた晴子さんに、私は頷いて返す。

「幸いその打撲はなんともなかったんですが……その時に霧島先生から聞いて初めて、神尾さんが病気持ちなんだということを知りました。翌日、神尾さんと会ってその話をしようとしましたが……」

あの日のことは、未だに鮮明に思い出すことができる。私と神尾さんとが、道を分けてしまった日。

それを口にしようとして、唇が震えるのが自覚できた。

「……神尾さんは怯えていました。堤防のことは、神尾さんは悪くないって、私が一言言って彼女を落ち着かせれば良かっただけなのに……。私は神尾さんの誤解を解くために行ったはずなのに……。何も、することができませんでした。その後、私は彼女に話しかけることができなくなって、彼女も気を遣って私と関わろうとせずに――夏まで過ごしてきました」

何かがズレておかしくなってしまっていった。解れた綻びは元に戻ることはなく、ただその大きさを広げていくだけ。

「私が……私の気持ちに気づいたのは、七月末の旅行に行く前日のことです。神尾さんから電話があって……その時は確か男の人がかけてきたんですけど、神尾さんを助けてほしいって。ひどく焦った様子で、私は神尾さんの身に何かあったんじゃないかと思って。けど、私はそれに応えることができませんでした……」

その言葉に、晴子さんが身じろぎしたのが視界の端に映り、私は晴子さんへと顔を向ける。彼女は少しだけ動揺していたみたいだけど、その真意までは分からなかった。

「……続けてや」

彼女の促しに、私は言葉を続ける。

「電話の終わりに、ちょっとですけど神尾さんと話しました。訳あって行くことができないこと、旅行から帰ったらお土産を渡しに行くこと。彼女は明らかに具合の悪そうな声で、それでも気丈に振る舞っていました。でも――違う、ほんとは……」

神尾さんの笑顔が、脳裏に浮かぶ。そう、私にはその笑顔が――。

「――私は、神尾さんが羨ましかったんです」

幸せそうな彼女を思って、私は孤独に嫉妬した。生まれていたときから続いていた孤独を噛みしめ、だけどそれをさらけ出すことを拒否し、ただ堪え忍ぶことだけを考えて。

「……私の家は両親ともに共働きで遊ぶ相手もおらず、父親が転勤の多い仕事だったので子供の頃から住む場所は転々と移動していました。そのせいもあって、元々消極的で人見知りがちな私は、なかなか友達を作ることも出来ませんでした。たとえ出来たとしても、次の年には引っ越してしまったり……。だから高校に入る直前に転勤になった時、もう一度だけやり直そうと思ったんですけど……ダメでした」
「川口さんは、いつも大勢のお友達の方といらっしゃるじゃないですか?」

不思議そうに遠野さんは尋ねてくるけど、私はそれに首を横に振って、

「分からないんです……。確かに学校で話す人はいますけど、親身になって相談したり、一緒に遊びに行ったりということはありません。皆、私が宿題を見せてくれるから、都合がいいから付き合っているだけ、という風に感じてしまうんです。頭の中ではそうじゃないと思っても、違うんだって言い聞かせても、私は……」

口篭もって視線を下に向ける。遠野さんが何か言葉をつなげようとするのが視界の端に映ったけど、結局遠野さんの言葉が紡がれることはなかった。

私は続ける。

「だから、周りに心配されて、気にかけてもらえる神尾さんが羨ましかった。晴子さんみたいに、あの電話の男の人のように、神尾さんを心配する人がいるということが、私にはとても妬ましかった。同じように、一人で生きてきたのに、なんで神尾さんだけ、なんで私だけ、一人で歯を食いしばって生きなきゃならないんだろうって……。友達も、心配してくれる家族もいない私にとっては、家族を持っている彼女が凄く羨ましかったんです……!」

感情が昂ぶっていくのが自覚できる。誰にもいうことがなかった、心の奥底にあった負の感情を吐き出していくことが、想像以上に自分を御せなくなるものなんだと、頭のどこか冷静な部分が告げる。ヒートアップして、思った言葉を連ねていく自分と、それを冷静に客観視する自分と。

「だけど……それが私の勝手な思いこみだったんだって気づいて、私は神尾さんになんて申し訳ない事をしてしまっていたんだろうって……」

あの葬儀の後のやりとりを思い出し、震えて小さくなっていく言葉を精一杯絞り出すように吐き出す。いつの間にか、私は左手の掌で自分の口元を押さえていた。

「彼女は私以上に辛い境遇にいたはずなのに、それでもそんな様子を見せる事もなく笑いかけてくれました。私はそれに気づかず、自分の事ばっかり考えて、神尾さんの事なんか少しも考えずに……! 彼女の事を責めるばかりで、最初だけ友達のような顔をして、結局裏切って……! わ、私は神尾さんに、なんて謝ればいいかさえ、分からないんです! こんな、上っ面だけの友達なんて……!」

私は泣き出していた。嗚咽も混じりはじめて、呼吸が速くなっていく。まだ――数回会っただけの人に、物心ついてからほとんど忘れていた涙を、隠す事もなくさらけ出す。

「私は――私なんか、いないほうが、神尾さんには良かったんだ……」

頬を伝って、溢れた涙が口元を押さえる左手に触れる。もう、この涙を止めるつもりはなかった。どう罵られたっていい。最後に振り絞った勇気なんだから――。

「……川口さん」

いつの間にか隣に膝をついて座っていた晴子さんの左手が、私の髪を軽くなでる。

「……ありがとうな」
「え――?」

突拍子もない言葉を聞き、私は思わず泣きじゃくった顔のまま晴子さんを見た。彼女はただ穏やかに笑って、髪をなでてくれていた左手を私の頬に触れ、

「観鈴の事や。アンタが悩んどった理由――聞けて嬉しかったわ。そこまで観鈴の事を考えてくれていたんが、ウチには――あの子の親として、凄く嬉しいんや。アンタみたいな子が世の中に仰山おったら、あの子ももっと……」
「……でも私は、神尾さんには何もできなかった……」
「けど、アンタはなーんも悪い事はしてへんのやで?」
「……悪い事……?」
「そや。……ええか?」

晴子さんは私の肩に手を移し、言葉を続ける。

「結果だけ見れば、確かに何か出来たように思えるかもしれへん。けど、それはそのときになるまで分からんかった。分からんかっただけの理由があるんや。それを棚上げして過去を責めたらアカン。自分自身の心を傷つけるだけになってしまう」
「……」
「アンタが観鈴の事を、自分の心が傷つくまで考えてくれとったことはじゅーぶん分かったんや。ウチはそれだけで満足や……」
「でも……」

不意に、晴子さんが私の身体を抱きしめる。それはとっても温かくて優しい香りがして――どこか懐かしいように感じた。

「怖かったんやろ?」

耳元で囁くように聞こえたその言葉に、私ははっとする。

「今までずっと一人ぼっちだって、思ってたんやろ? 生きる事が怖くて、人の視線に怯えて……ずっと、誰かに支えてもらいたかったんやろ?」

ぎゅっと抱きしめられる安心感。私が求めていたもの――幼い頃の記憶にある母親の匂い。

「みんな一人やったら寂しいんや。歯を食いしばって生きてても辛いだけや……。誰かを頼りたくなったら、頼ってもええんやで」

一人で生きるのが当たり前だと思っていた。一人で生きていかなくちゃと思っていた。だけどそれはとても寂しくて、辛くて――でも弱音を口にする事は自分が弱くなることを認めてしまうような気がして、誰にも言えなかった。

でもホントは、人の温もりが欲しかった。信じられる誰かがいてほしかった。こうやって抱きしめてくれる誰かを――心の奥底で欲しがっていたんだ。

「大丈夫。大丈夫や――」

大声で泣き叫ぶ私を、神尾さんのお母さんは私の髪をなでながら優しく抱きしめてくれた。幼い子供のように泣きじゃくる私に言い聞かせるように、何度もその言葉を繰り返していた。

それだけで良かったんだ。私は、はじめて自分が生きているように実感できた――。

どのくらいの間私は泣いていたのか、あまりはっきりと覚えていない。晴子さんは私が落ち着くのを待って、ゆっくりとその話を始めた。

「ウチもな、最初から母親やったわけやあらへん。むしろその逆や――あの娘のこと、ほとんど構ってあげられへんかった。あの娘が小さい頃から、何かと理由つけてあの娘と正面から向き合うのを拒んどったんや。そんなん母親やなんて言えんやろ」
「でも、神尾さんが発作を起こす度に晴子さんがすぐに迎えにきたって……。それは立派なことなんじゃないですか?」

晴子さんの顔を見上げ、そう問いかける。彼女は優しい微笑みを浮かべ、

「あの娘がウチのところに来たばっかりの頃は、鬱陶しいだけやと思っとった。実際、あの娘はウチが預かってるだけやったから、さっさと引き取りに来てほしいと思っとったくらいや。せやけど、あの娘の面倒を見るうちにだんだんと情が沸いてきてな。あの娘を橘の――実の父親のほうに帰したくなくなっていったんや。でも親権は実の父親の方が握っとるわけやし、あの娘を返せと言われたら黙って返さなアカン。だからそうなった時に辛くならんよう、なるべくあの娘と距離を置こうと思うたんや。それが……間違いやった」

そういう晴子さんはどこか自嘲気味だった。その声音は私もよく知っている――後悔を含んだものだったから。

「あの娘を迎えに行っとったんも、そんな中途半端な気持ちの末に出とった行動の一つや。誉められたもんやあらへん。世間体が悪いから、とか勝手に納得できる理由をこじつけたりな。そんな気持ちにようやっとケリつけたのも、あの娘が亡くなる数日前のことや。ホンマ――ウチのほうが川口さんよりやれることも多かったはずやのにな……」

晴子さんは笑っていた――まるであの時の神尾さんのように――その瞳に、後悔の色を映しながら。その気持ちは否が応にも理解できた。私なんかよりも、もっと深い悔しさと悲しさに囚われていたんだろうと思う。一人じゃないという彼女の言葉は、彼女自身にも向けられているんだ。神尾さんのお葬式で見た晴子さんの姿は、決して記憶違いでも何でもない。あの時の彼女が、今の私のようだったんだ。

「――せやけど、これだけは覚えておいて貰いたいんや――」

その静かな言葉で、自然と視線が交わる。

「観鈴は、最後に笑っとった。笑いながら、ウチの腕の中で静かに眠りよった。ウチが自分の気持ちにケリつけて、胸張ってあの娘の母親やって言えるんはほんのわずかな間やったけど……。それでもあの娘は、今までウチと過ごした中で一番素直に笑っとったんや」

悲しい笑み。だけど、晴子さんの意志が秘められた力強さもそこにある。

「観鈴は――幸せやった。そう思えるんや。せやから、ウチも笑える」

それは強がりからでた笑みではなく、彼女自身が心底そう思っているから出来る、優しい笑みだった。神尾さんが亡くなってしまったという事実を受け入れて――それでも過去に囚われず、だけど想い出は大切にする、晴子さんの意思の表れなんだろう。私も、そんな人でありたい。いつか、そうなれるだろうか――。

「うし、辛気くさい話はコレで終わりや。もうそろそろ夕飯も作らなアカンしな」

晴子さんがニッと笑い、私の肩を軽くぽんと叩いて立ち上がる。視線を動かして見た柱時計は、既に六時過ぎを指していた。雨はだいぶ収まったようだったけど、空がまだ厚い雲に覆われているせいで時間が経っていることに気付かなかった。

「アンタら二人とも、明日は土曜やし学校休みやろ? 連れて行きたいところがあるんや」
「はい……大丈夫ですよ」

傍でずっと見守っていた遠野さんが応える。私はうまく声にすることが出来なかったけど、晴子さんが私を見て小さく頷く。

「今日はウチで夕飯食ってき。何やったら泊まってってもええで」

その言葉に、私は遠野さんと顔を見合わせる。申し合わせたわけではなかったけど、同時に遠野さんもこちらも見たようで、視線で問いかけてくるのが分かった。

神尾さんへのコンプレックスは幾分和らいだものの、依然として私の中では家族とのわだかまりが残っていた。本心で言えば――自宅に戻ることに対して、私はまだ躊躇っているところがある。晴子さんの申し出は有り難いんだけど、果たして本当にそれは正しい選択なんだろうか――?

「――まだ何か、抱え込んでるみたいやな」

晴子さんの声。彼女が再び膝を立てて、私の前に座る。

「帰りたくないんか、アンタ」
「……はい」
「そか――」

それだけ聞くと、晴子さんはすっと立ち上がって、

「せやったら気の済むまでウチに泊まったらえぇ。理由も聞かへん――けど、アンタやったら大丈夫や」

私の何が大丈夫なんですか――と訊き返す前に晴子さんは踵を返していた。

「とりあえず、今日の夕飯は三人分で構わへんな。泊まるかどうかはまた後で決めればえぇし」
「……ありがとうございます」

肩越しに言う晴子さんに、遠野さんが頭を下げてお礼を言う――私は何も言えなかった。台所へと向かっていく晴子さんの後ろ姿を、ただ見つめて呆然としていた。

「川口さん……」

遠野さんが私の名を呼ぶ。だけど、それにも応えることが出来ず、私は俯いて黙っていた。

その日の夕食は、そのまま神尾さんの家でご馳走になった。家には何にも連絡していないし、書き置きとかも置いてきていない。そもそも――私が家を出たのは、本当に戻るつもりがなかったからだし。遠野さんは電話を借りて彼女の親に連絡していたようだけど、私の親はまだ家に戻ってきてもいないだろう。

「やっぱ――泊まってき。今のままやったらアンタ、また同じように悩むことになるわ」

食卓の席に着いたとき、晴子さんは私に向かってそう言った。もしかしたら、そうなのかもしれない。というか、どこか自分でもそう予感めいた何かを感じていた。

お風呂にも入れてもらい、寝間着も神尾さんのものを借りることになった。今日着ていた制服はすぐに洗濯すれば、明日の朝には乾いているだろうと晴子さんが笑いながら言う。彼女は、私を泊めることにした後も食卓に着いた時の発言以外はずっと、何かしら話しながら笑っていた。

そうして迎えた夜。夕方に降っていた雨はあがり、夜の闇に澄んだ月明かりが映えている。庭先の方に身体を向けながら、私は床の間に客用だという布団を敷いてその上に座っていた。隣にはもう一つ、布団が敷いてある――それは遠野さんの分だった。彼女も、私と一緒に神尾さんの家に泊まることにしていた。

「……まだ起きてらっしゃったんですか」

聞こえた声に振り返ると、お風呂から上がったばかりの遠野さんが、扉の奥から顔を覗かせていた。少し逆光気味だったので、表情はよく見えなかったけど。

「えぇ……。晴子さんは、もう床につかれたんですか?」
「……そうみたいですね。部屋の電気は消灯されていますから」

遠野さんの姿が台所の方へと消え、蛇口をひねる音とともに水の流れる音がする。その後台所の明かりが消えて、縁側に差し込む月明かりに目が慣れたところで遠野さんが隣へとやってきた。

「…………」
「…………」

二人、布団に寝るわけでもなくただその上に座って沈黙する。何をするわけでもないんだけれど、どうしてか遠野さんと一緒にいると今みたいな奇妙な沈黙が訪れてしまう。遠野さんに訊いてみたいことはあるんだけど、きっかけが掴めない。

「……川口さん」

どうしようかと気を揉んでいると、不意に遠野さんが私の名を呼ぶ。多少驚きながらも顔を向けると、彼女は窓の先の月を眺めながら、

「覚えていますか? 神尾さんの葬儀の前日に、川口さんが私に尋ねてこられたこと……」
「葬儀の、前の日……? ――あ」

一瞬、なんのことだろうと戸惑ったけど、すぐに記憶が蘇ってくる。何故遠野さんは、神尾さんの葬儀に出席するのか――。

それはまさに遠野さんに訊いてみたいことだった。今日、彼女が私をここに連れてきたのも、彼女が神尾さんの葬式の後にここへ頻繁に来ていたのも、全てはそこにあるはず。クラスメイトだからとその時遠野さんはそう答えたけど、それだけじゃなかったはずだから。

彼女は静かな声音で、私の思考に応えるかのように言葉を紡ぐ。

「……似ていたんですよ」
「似ていた――? 何が、どう似ていたんですか?」
「……私と神尾さんが、です」

遠野さんが私に視線を向ける。その瞳は推し測れないほど深い色で。

「――私は、幼い頃から母子家庭で育ってきました。とあることを境に父が別居するようになり、それからはずっと。もう何年も、父とは会っていません……」

思わず、息を呑む。遠野さんの淡々とした語り口調に、私は身じろぎさえ憚られた。

「私には妹が産まれる予定でした。父も母も私も新しい家族を心待ちにしており、私が父になついていたせいか、特に母は妹を望んでいました。けど、妹は流産で――。そのショックで、母は『夢を見る』ようになったんです」

遠野さんがちょっとだけ目を伏せる。言葉は抽象的だったけど、私はそれがどういう意味なのかはなんとなくだけど分かった。

「母は退院してから、私のことを妹につけるはずだった名前で呼ぶようになりました。父はそれを見て、母を医者にかからせたようです。ある種の精神錯乱といわれ、父はしばらく母の面倒を見ていましたが、夫婦喧嘩が絶えなくなってついに父は家を出て行ってしまいました。母はその時、自分のことを精神病患者だと認めていなかったみたいです。そのこと以外は全く問題がありませんでしたから。私も父について行くかどうかという問題になりましたが、母が私のことを妹の名前で呼んでいたことを、私は幼いながらも母の状態を分かっていました……」
「…………」

私の想像を超えた遠野さんの幼少時代の記憶に、私は押し黙ることしかできなかった。果たして、それは本当に母子家庭といえる状況なんだろうか。それを感情的に理解するのは、私には無理な話だろう。

彼女は、続ける。

「私は母の前で妹として振る舞うことを選びました。そうすることが、私の役割なんだと。いつか母の病気も治ると信じて。それから何年も、私は二つの人生を送ってきました。妹である『みちる』と、その姉の『美凪』と。だからこそ、友達も作らず、親身にならないように、私は生きてきました。そうでないと、私は生きていけませんでしたから」

そこで、はっとする。確かに――遠野さんと神尾さんは、よく似ている。その境遇が、状況こそ違えど友達を作れず独りきりで自分を支えて生きていくということが。

遠野さんの言葉通り、そうしないと生きていけなかったんだろう。母親と自分だけならまだしも、社会の誤魔化しはできない。母を傷つけないために、自分を偽っていくために、自らの人生を代償にして。遠野さんの優しい性格なら、想像に難くない。

「……幼かった私には、二つの仮面を演じ分けるのはとても難しいことでした。その時に私を支えてくれたのが、妹が産まれていたらそのくらいの歳だろうという女の子です。私たちはすぐに仲良くなり、よく一緒に遊びました。普段は『みちる』として過ごす私も、その子の前なら『美凪』に戻れましたから。妹として生きざるを得なかった私に、姉としての私を思い出させてくれた、大切な友達です。けど、神尾さんの亡くなる数日前――本当についこの間なのですが、その子が私に別れを告げにやってきました」
「……その子に、何かあったんですか?」

遠野さんは静かに首を横に振り、少しだけその悲しみを顔に覗かせて、

「その子が言うには、もう会えないくらい遠い場所に行かなければならない、と。最後に、私を励ましにやってきてくれたんです……」

遠野さんが目を伏せ、言葉を詰まらせる。その子の身に何が起きたのかは分からないけど、その言葉の後に何が起こるのかは分かる。あまりにも、辛い別れ。

「もう大丈夫だから、お母さんを支えてあげてって、その子は言いました。その言葉を聞いた時には、私には何のことを言っているのかさっぱり分かりませんでしたし、それよりも別れを告げられたという事実の方がショックでした。けどその数日後に、母の症状が快復に向かい、私のことを『美凪』と呼んでくれるようになったんです。長い間現実から目を逸らしていた母が、『夢』から覚めたんだと思いました」
「それって……」

こっちの言葉に、遠野さんは小さく微笑みを浮かべ、

「……はい。その子は、私の見ていた『夢』です。母が『夢』を見始めるのと一緒に、私も『夢』を見るようになったんだと思います。私が、こうだったらいいんじゃないかって望んでいた幻だったんだと。だから、母の『夢』が覚めるのも分かったんじゃないかって思います。川口さんには不思議な話に聞こえるかもしれませんが、私にとってそれはまさしく私の人生で――私そのものですし、親友との大切な想い出なんです」

確かにそれはなんだか摩訶不思議な話だし、にわかには信じがたいけど――それでもその話が嘘だとは思えない。それを話す遠野さんの声が、とても優しかったから。

「実際、ここ数年で母の病気はほぼ完治したと言われていました。後は現実を見つめ直すきっかけ――今ではそれが何だったのか分かりませんが、そのきっかけがあればすぐにでも症状は快復に向かうだろうと。だから――だからこそ、私も無意識のうちに『夢』の終わりに気づいていたんだと思います」

遠野さんは微笑みを浮かべたままでさらりと語るけど、それがどれだけ重いことなのか……。とても、物心つくかつかないかの子供に抱えきれるようなことじゃないと思う。そのポーカーフェイスの裏側に隠されていた悲しみは、どれだけのものだったんだろう。

「――――」

そこで、私は気づいた。それが神尾さんの亡くなる数日前まで続いていた――ということは、彼女は夏休みに入る前までずっとそんな事情を抱えたまま過ごしていたんだ。全く、私たちの生活と変わることなく。少なくともその表面上は。

私は神尾さんの葬儀の日に、遠野さんに何て言っただろう。冷たい人間――神尾さんを見殺しにした――それを、遠野さんは一言の反論も弁解もなく、あまつさえ八つ当たりに近い感情で放った私のその言葉を、責めることもせず。彼女にはそうするだけの理由、立場があったはずなのに。

「……遠野さんは、強いですね」

世辞でも比喩でもなく、単純にそう思う。私なんかより、ずっと。

「何故、遠野さんは私を責めないんです?」
「……何故、私が川口さんを責める必要があるんでしょう?」
「神尾さんの葬儀の日の――あの時です。私はその遠野さんの事情さえもよく知らずに、ただ自分の感情に任せて遠野さんにきついことを言いました。何故あの時一言も言い訳せずに――再会したときに私を責めなかったんですか?」

駅で再会したとき、私は怯えていた。ただ謝ることしか出来ず、遠野さんは黙ってそれを聞いてくれただけだった。それは有り難かった。けど、今になって思うと不思議でもある。彼女を非難する訳じゃないけど、そんな事情ならむしろ弁解してくれた方が、責めてくれた方がいっそ気が楽になったと思う。

だからこそ知りたい。そこまで強くなれる、彼女のことが。

「……人にはそれぞれに生きてきた背景がありますし、考え方や価値観も違います。晴子さんも仰っていたように――川口さんだって、『事情を知らない』という事情があったんです。それを考えれば、責めることなんかできません。そういう理解があれば歩み寄りこそすれ、傷つけ合う必要はないんじゃないでしょうか――」

皮肉でもなんでもない、真摯な言葉。ただ、それだけで思う――敵わないな、と。

「自分自身さえも顧みない人が、他の人を顧みるなど無理な話です。川口さんには、それに気づいて欲しかったから――晴子さんはそれを教えてくれるだろうから」

そう言葉をくくって、彼女は瞳を閉じる。

辻褄合わせに過ぎない憶測だけど、彼女が晴子さんを訪れたのもそれが理由だったのかもしれない。論理的に導いた、というよりは直感的に晴子さんがその答えを知っていると思ったんだと思う。彼女と神尾さんが似ていたと、彼女自身が考えていたのだから。

勿論、晴子さんがその答えをすぐに導いたものだとも思わない。あの葬儀の日にうなだれていた姿は、過去を後悔する様――私そのものだった。だけど、晴子さんは答えを出した。神尾さんの考えを受け入れて。そこに至るまでには、遠野さんが訪れたことも無関係ではないはず。お互いが語り合う中で――自然と生まれてきた答えだったんだと思う。

それは別れを告げられたもの同士の慰め合いに過ぎないものなのだろうか? 語る言葉を持たなくなった思い出の人に対して、あれこれと理屈をつけて自分の気持ちに納得をつけることは、単なる感傷でしかないだろうか?

そうは思わない。人が支え合う中で見つける答えは、暗闇に光を見いだすような、希望のようなもの。たとえ第三者には馴れ合いにしか見えない慰めでも、その人が生きる自信を持てるのなら、それは忌避されるべきものじゃないはず。一生懸命に生きること――結局、そこに集約される。そのためにであれば、誰かと寄り添って生きることは恥ずべきことじゃない。私は、そう考えることが出来なかった。

「川口さんは――」

思考の隙間に、遠野さんの言葉が滑り込む。

「そういう意味では、神尾さんによく似ていると思います」

いつだったか、他愛ない話の中で神尾さんとそう語り合った記憶があった。神尾さんと親しい近さを持てた、懐かしい日に。

「ということは、私は遠野さんにも似ているということですね」
「……そうですね。私たちは、よく似ていると思います」

遠野さんの言葉に、言いようもない可笑しさがこみ上げてくる。全く考えていることが分からないと思っていた人と、自分はよく似ているということに。ふと視点を変えれば、確かにそうなのかもしれないと考えた自分が可笑しくて。

結局、どんな人だって全部が全部他人と違うコトなんて無い。同じ人間なんだから。

「……生きることは、言葉で語るほど綺麗なことじゃないと思います。ともに支え合って、傷つけ合って……それでも生きていくということそのものが人としての誇り――」

ぽつりと呟かれた遠野さんの声が、不意に私の心を触れていく。それが彼女を立ち上がらせた信念なんだろう。どちらからというわけでもなく視線が交錯して、同時に笑みをこぼす。

柔らかな月明かりに満ちる夜が更けていった。

翌朝は夏の戻りというか、早い時間からあの夏のけだるい暑さを醸し出していた。夏を象徴する蝉の声が聞こえなくなったとはいえ、陽の出ているうちはまだまだ暑さが残っている。まるで夏を惜しむかのように。

目が覚めたのは朝八時前。起き出してみると、それでも私が一番起きるのが遅かったらしい。晴子さんは三人分の朝食を準備しているところだったし、遠野さんはその手伝いをしている。洗濯していた服は綺麗に折りたたまれて枕元に置かれており、さっと着替えを済ませて私も――と思ったけどその前に晴子さんに断りを入れて電話を借りた。とりあえず、親に無断外泊したことを謝っておきたかったから。

呼び出し音から数拍おいて電話口から聞こえてきたのは、少し憔悴したような、また私の声を聞いて動揺を顕わにした母親の声だった。聞けば昨晩仕事から帰ってきて私の不在を知り、それからずっと私からの連絡がないことを案じていて、ほとんど睡眠も取っていなかったようだった。昨日の朝の出来事がかなり気がかりになっていたらしい。

「……ごめん。ごめんね――」

無事を知って安堵の様子を隠すこともない母親に、私は無意識のうちに自らの非を詫びる。涙を流して泣きこそしなかったものの、内心ではどう贖っても足りないくらいの申し訳なさを感じていた。

「――その分やと、もうここに泊まる必要はなさそうやな」

受話器を置くと、晴子さんが台所からこちらを覗いていた。微笑みをたたえて頷く。相手もそれに応えて微笑む。

その後、朝からにぎやかな朝食を終えてその片づけがちょうど一段落したときに、私は晴子さんの自室に呼ばれた。

「私に用って、何でしょうか?」
「まぁ、大したことやあらへん。これを渡そうと思うてな」

晴子さんの手に握られていたのは、白色のリボンだった。どこかで見た記憶のあるリボン――。

「――それは、まさか神尾さんの……?」

私が驚きを隠せないまま尋ねると、晴子さんは少しだけ笑みに翳りを見せながら、

「そや。これはあの娘の――観鈴のリボンや。一応、形見っちゅーことになるんやろか。けどまぁそんなん気にせんと、川口さんに貰って欲しいんや」
「こんな……大切なものを、私に?」

一応も何も、これは間違いなく神尾さんの形見で――彼女が肌身離さず身につけていた、思い入れのあるものなんじゃないだろうか。晴子さんがそれを知らないはずがない。

「アンタには観鈴にお土産買うてきてもろうてるしなー。なんかお礼を返さんと失礼やろ」
「はぁ……」

私はむしろ、あんな安っぽい髪飾りで神尾さんの形見を頂いてしまうことに気が引ける。どう考えてもそれじゃ釣り合わないような気がするんだけど。

「ほら、ここに座ったりー」
「っとと……」

にひひと笑う晴子さんに、鏡台のところにあった椅子に言われるがままに座らされる。こっちとしてはリボンを貰うのはいっこうに構わないし、神尾さんの形見ならばむしろ願ったり叶ったりなんだけど、なんだか釈然としなかった。晴子さんはそういったことに頓着しないのだろうか。

「それにアンタやったら、このリボンがよく似合いそうやしなー。髪も綺麗やし」
「ど、どうも……」

晴子さんがそう言って私の髪に触れる。他人の目に留まるような綺麗な髪でもないけど、あんまり癖はないしセミロングくらいの長さはあるから、リボンで結ぶにはちょうどいいかもしれない。

「遠野さんの話――聞いたんやろ?」

鏡台の脇に置いてあった櫛を取り、晴子さんが静かに呟いた。思わずとっさに振り向こうとして、

「おーっと、顔は動かさんといてや。鏡向いたままで居たってな」
「ご、ごめんなさい――」

少し赤面しつつ、大人しく前を向く。鏡で見る晴子さんは上機嫌のまま私の髪を梳いている。

「アンタが昨日の晩と今日の朝で雰囲気が変わってるんも、遠野さんとなんか話したんやないやろかって思ってな」
「……はい。色々と、遠野さんには励ましていだたきました」
「まぁ――アンタらよく似とんもんなぁ……」

その言葉にはっとして、けど振り向かずに、鏡の中の晴子さんに視線で問いかける。晴子さんは私の視線に気づき、小さく笑みを浮かべて、

「図星――ってところやな、その顔は」
「そうですね……。昨晩、全く同じことを二人で言っていましたから」

私は昨夜のことを思い出し、苦笑する。

「だけど、遠野さんは私なんかよりもずっと強いですよ――」

卑屈になっているわけではなく、素直にそう思う。似ているのは積極的な性格ではないこととかで、自身に降りかかる様々な出来事を冷静に受け止められる力は遠野さんに遠く及ばない。そういったところも似ていれば良かったんだけど。

少し間を置いて、晴子さんが小さく呟く。

「……昨日もちょっと言うたけど、遠野さんが初めてウチのところに来た時もな、結構ひどい雨が降っていたんや」

鏡越しに見える晴子さんは、どことなく寂しそうな、それでいて遠い日を想う懐かしさを秘めた表情をしていた。こちらが黙って話を聞いているのを認めて、晴子さんはそのまま言葉を続ける。

「確か観鈴の葬儀の三日か四日後くらいやった。ウチもまだ全然呆けた心持ちから抜け出せて無かった時に、遠野さんが唐突に訪ねてきたんや。傘は差しとったけど、玄関の軒先でほとんどずぶ濡れになって佇んどったんはよう覚えとる。で、開口一番『助けていただけませんか?』ってな――。こっちは話が唐突すぎて何も言えんかったわ」

その情景を思い出しているんだろう、晴子さんが苦笑に口の端を歪める。

「とりあえず玄関の軒先じゃ何やからと、居間で話すことにしたんや。といっても、ウチもアレコレする元気はなかったし、遠野さんが話し出すまで二人して無言で呆けとったけどな。それから、色々と聞かせてもろたわ――あの子の人生、立場、考え方。観鈴のこともな……」

晴子さんのその声音には、どこか寂しさを含んでいた。遠野さんの話、となれば昨晩私も聞いたあの話のことなんだろう。その寂しさを含んだ声音が意味するものは、遠野さんの話を思ってのことか、それともその話から浮かぶ晴子さんの過去なのか。それは、私には分からない。

一拍置いて、晴子さんは言葉を繋げる。

「あの子自身が言うとった――観鈴と自分はよく似ている。放っておけなかったけど、結果的には何も出来なかった――。驚くくらい、アンタと同じこと言うとったんやで」

――やっぱり、遠野さんも悩んでいたんだ。彼女は無神経なわけじゃない。ただ考えていることが表情にまで出てこないだけで、私と全く同じ悩みを持ち、苦しみを知っている――その事実は、私の心をいっそう締め付ける。

「それで、そのことで悩んでいる友達がもう一人いる――って聞かされてな。その子を助けてあげて欲しい、って頼まれたんや」
「――それってまさか……」
「そのまさか、や。遠野さんはアンタの思いには気づいとった。けどその解決方法が分からへんかった。遠野さんは、遠野さんなりのやり方で自分の気持ちにケリつけることが出来たんやしな。アンタの気持ちはアンタがケリつけるしかない。だからウチのところへ訪ねてきたっちゅーわけや」

いつからそれに気づいていたんだろう。どこまで私の心に気づいていたんだろう。私は、それが気づかれているということにすら気づいていなかった。

それを問うてみたい人は、今この場にはいない。

「正直、ウチが何か手助け出来るとかは考えてなんかおらんかったけどな。昨日、遠野さんとアンタが連れ立って来た時に分かったんや。遠野さんの言っていた子はこの子なんやな――って。それでアンタの話も聞いて、分かったことがあった」
「? ……なんでしょう?」

晴子さんが髪を梳くのを止めて、櫛を鏡台に置く。鏡の中で、私の髪が神尾さんのリボンで束ねられていくのが見えた。

「アンタは――遠野さんよりも――観鈴に似とるんや。誰かを頼ることを知らず、けどその頼りを求めとった、あの娘に。もしかしたら、だからこそウチが手をさしのべることが出来るかもしれないと、遠野さんは思ったんかもしれんなぁ」
「…………」
「遠野さんはアンタのことを気に入っとる。ウチもアンタのことが好きや。確かに遠野さんと比べれば、アンタはまだそれを受け止められるほど強くはないのかもしれんけど、でもいつか――アンタだって強くなる日が来るはずや。そう遠くないうちに、な」

それは気休めの励ましじゃない――さっきの私の弱音への返答だった。晴子さんはそれを見抜いて、こんな話を私にしたのかもしれない。以前の私ならその言葉に気負いを感じていただろうけど、今はそうじゃなく素直に嬉しいみたいな――温かい気持ちになれた。

「――はい、頑張りますよ」

その一言に、晴子さんが少しだけ笑ってくれたような気がした。

「よーし、これで終いや!」

晴子さんが私の肩を叩いて言う。意識を鏡に戻して見れば、神尾さんと同じようなポニーテールとリボン――幾分私の方が髪が短いせいで神尾さんのように背中まで届いてはいなかったけど、私の髪は神尾さんと同じ格好をしていた。彼女が幼い頃にこうやって晴子さんに髪を結わえられていたことを思うと、不思議と心が温まる気持ちになる。たとえそれが、もう叶わない彼女の影を追っているだけだったとしても。

その時、軽やかなノックの音とともに、遠野さんが顔を見せる。

「晴子さん、こちらはもう出かけられますよ――あっ……」

遠野さんがこちらを見て、不意に目を大きく開かせる。形容するなら――何か猫好きの人がとても愛らしい猫を見た時のような、そんな瞳で。それで、私はその視線を向けられている当事者で。

「よう似合っとるやろ?」
「はい……とってもよくお似合いです」

そんな夢見る乙女のような好奇心いっぱいの目を向けられても……と、私はタジタジになってしまった。実際、遠野さんの視線は肯定こそすれ否定の意志など欠片もない、言葉通りの純粋な賞賛で、それがよけいに私を気恥ずかしくさせる。そういった視線を向けられることに、私は慣れていなかった。

まぁそれよりも、遠野さんのこういう姿を見るのが凄く新鮮だったんだけど。

「ところで……出かけるって、どこに行くんですか?」

気を逸らすように、私は別の話題を振る。昨日、晴子さんはどこか私たちを連れて行きたい場所があると言っていたから多分その話なんだろうけど。

晴子さんは、朗らかな笑みを湛えて言った。

「それは勿論、観鈴の墓参りや」

神尾さんの家から歩いて三十分弱。私たちは、この小さな町を一望できる小高い丘の斜面に設けられた墓地に来ていた。まぁ、町から歩いていける距離にある墓地と言えばここくらいしかないし、神尾さんはこの町の出身なんだからここに来るというのはある意味当然とも言えるんだけど。

少し空を仰いで、細めた目で前を見やる。その墓地の中でもなかなか良い景色を見渡せる場所に、神尾家之墓と大きく刻まれた墓石は鎮座していた。

「なかなか立派なもんやろ?」

いっぱいに水を張った木桶を置きながら、晴子さんが調子よく言う。周りと比較して見れば、確かにこの墓は長い年月を感じさせる相応の風格があるような気がした。けど、その言葉が少し皮肉を帯びているように聞こえたのは、私の気のせいだろうか。

「ここにはウチの両親もいるし、その前の、そのまた前も、神尾家は皆ここで眠っとる。勿論、観鈴も、観鈴の実の母親であるウチの姉貴も――な」

代々伝わる墓、ということなんだろう。駆け落ちして嫁いでいったはずの晴子さんのお姉さん――郁子さんもいるということは、もしかしたら晴子さんがそう望んだのかもしれない。それか、郁子さん自身の望みだったんだろうか。

さわさわと、思考の片隅に風が木の葉を揺らす音が混じる。

「……それでは、まずは掃除しましょうか」
「せやな」

遠野さんが持ってきた箒とちり取りを手に、墓の周りのゴミを集めていく。私は両手で抱えた供花を見やりながら、

「これ、ちょっと量が多くないですか?」
「これくらいがちょうどええんやって。せっかく友達が墓参りに来てるんやしな」

ひょいっと晴子さんが私の抱えた供花を手にする。明らかに以前に供えられていた花の量の二倍くらいはあるんだけど、晴子さんはそれを器用に片手で抱え、しおれた花を取り替え始める。

「川口さん、その桶こっちに持ってきてくれへん?」
「あ、はい」

晴子さんは器に入っていた水を捨て、木桶から水を汲んで新しい花束を供える。私は腕をまくって木桶にかけてあった雑巾を水で濡らし、墓石を綺麗に拭いていく。

元々ほとんどゴミも埃もなかったおかげで、掃除は思ったほど手間取ることもなく終わった。

「ふぅ。ま、こんなもんやろ」

少し汗ばむ額をぬぐいながら、晴子さんが終わりを告げる。掃除の汗というより、ここまで歩いてきた汗が今になって出てきたという感じだったけど。遠野さんはそんな様子もなく、涼しい顔でちり取りに集めたゴミをゴミ袋に移している。

「さて、と……」

晴子さんがズボンのポケットから紙製の箱をとり、その中から線香の束とライターをひょいっとつまみ出した。手早くその線香の束に火をつけるとライターを箱の中に戻して再びポケットに突っ込んで、

「ほいっ」

と、線香の束を適当に分けて私と遠野さんへと渡してくれた。線香ってこんな風にまとめて供えるものだろうか、と少々気になったりもしたけど、その辺りの豪快さが何とも清々しい。こういう時に一々それを指摘したりするのは、それこそ不作法な気がする。

顔を上げると、晴子さんは香炉に線香を置き、静かに手を合わせていた。晴子さんが何を考えているかは分からない、けどどこか寂寥を感じさせる表情で。その一瞬だけ、その場の音が何もかも消失し、まるで夢の中にいるような錯覚を覚える。

その錯覚が錯覚だと分かった時には、晴子さんはもう立ち上がってこちらへと戻ってくるところだった。

「……川口さん――?」

遠野さんが怪訝な様子で、私を伺う。

「あ――あはは、何でもないよ」
「……そうですか」

遠野さんに『先にどうぞ』というジェスチャーを送りながら、笑って誤魔化す。そのジェスチャーをすぐに理解して、それでいて何も言わない遠野さんに、誤魔化しが通用するわけ無いんだけど。晴子さんもそのやり取りを見ながら、何も言わずに笑っていた。

――そうなんだ。ここが私の終わりで、始まりになる。

あの日。あの時。神尾さんと出会って、そこから始まった、私が私と向き合う物語。全く気づいていなかったこと、それとなく気づきながら目を背けていたこと、好きになって、嫌いになって、それでも嫌いになりきれなかったことを、神尾さんを通して私は知った。知って、壊れそうになって、助けられて、受け入れるために頑張ろうと決意した。

遠野さんもお参りを済ませ、戻ってきた。私はゆっくりと、前に歩みを進める。

思ったほどに、その足取りは重くはなかった。

「神尾さん……」

呟きが自然と漏れる。香炉に線香を置き、静かに目を閉じて手を合わせる。

思い出したのは、神尾さんと共有したわずかばかりの時間。それから後悔した日々を、今に至るまでの記憶を。だけど、はっきりと思い出せるのは彼女の笑った顔だった。

私は、貴女から色んなものを貰った。独りで居ることを思い出す苦痛も、二人で居ることに安らぎを感じられる幸せも、忘れかけていた友達という存在も――。

友達、というのは違和感を覚えるかもしれない。あの時以降、私たちはほとんど喋らなくなって疎遠になってしまった、それは確かな事実。今、貴女に直接聞いたらなんと答えたんだろうね。

私はこう言うよ――神尾観鈴は、私の大切な友達だ、って。

そうでしょう? 私たちが友達になってから、友達を止めようとか絶交しようだなんてお互いに一言も言ってない。だったら、後は友達を続けようとする想いだけだと思う。……勝手なのかもしれないけどね。けど――。

だから、今、私は笑っていられる。幸せに生きた、貴女を想って。

だから、今、私は生きていける。幸せに生きようとした、貴女のようになりたいから。

だから――。

だから、ありがとう――観鈴。

すっと閉じた目を開き、立ち上がる。ほんのわずかな時間でしかなかったから、まだ陽は一目で分かるほどに傾いてはいない。けど、私が家に辿り着く頃には綺麗な夕焼けが見える頃合いにはなるだろうと予測できた。

久しぶりに、この丘から夕焼けを眺めるのもいいかもしれない。むしろそれまでの時間潰しのほうが頭を悩ませる問題かもしれないけど――。

「おーい。しーげーみーちゃーん!」

カクッと首がうなだれる。あのちょっと人をからかうような、そんな気の抜ける感じで私の名前を呼ぶ人はこの町で一人しかいない。

道の先を見やると、晴子さんが大きく手を振って美凪と一緒に歩いてくるのが見えた。こんな時間にこの二人と同時に遭遇するのは、最近ではあまりなかったことだった。最近、晴子さんは保母の仕事が忙しいって言っていたし、美凪と会うのは基本的に部活の時が多かったから。

「あのー、晴子さん……。あんまり人の名前を大声で叫ばないでください。……恥ずかしいから」
「まぁ、ええやん。どうせ他に人がおるわけでもなし」

にひひと笑う晴子さんは、会った時から少しも変わらない。いつも朗らかに、時に豪快な感じで笑う。

「こんにちは、ゲミー」
「こん――って、アンタも。その渾名を言うのは止めてって何度言ったかしら……?」
「……今ので三十四回目じゃないでしょうか」

ちょっと考えて返ってくる言葉が、全く気が利かなくて。むしろその一々覚えている記憶力には脱帽せざるを得ない。美凪は会った頃から変わったというより、私の彼女とのつきあい方が変わったような気がする。何故かボケとツッコミのような、奇妙なやり取りをすることが多い。

「あはは、アンタら二人とも相変わらずやなぁー」

それを笑い飛ばす晴子さんはいつものこと。なんだかさめざめと泣きたくなる気持ちが湧かないでもないけど、どこかでそれすらも楽しんでしまっている自分がいる。久しぶりに三人揃ったせいか、ちょっと懐かしいと思えた。普段、二人のどちらかとだけ会うことは割と多いはずなんだけど。

「それで、墓参りの帰りってとこかいな」
「えぇ……。観鈴が亡くなってから、一年が経ちましたしね……」
「せやな……」

その言葉を口にして、懐古の気持ちは一層と強くなっていく。観鈴の一周忌は若干過ぎてしまっているのも、あえて私がそうしているということも晴子さんと美凪は知っている。だから何も言わず、私と同じように海辺の町を遠くに眺めていた。

私と美凪は高校三年生に進級し、彼女が部長を務める天文部へと私も入部していた。彼女の語る星の魅力というのに惹かれたのもあったけど、私は私で、夜の星空をただ眺めるという昔からのヘンな癖もあった。あの夏以降すぐに親しくなった彼女を、私は『美凪』と呼び、彼女は私を『茂美』と呼んだ。当初はゲミーという渾名をつけられそうにもなったけど、私が全力で拒否している。以来、時折彼女はその渾名を呼ぶ時があるけど、たいてい冗談としてだ。真面目な時と表情の変化はほとんどないけど、私は一応それが彼女なりのジョークなんだということを――割と長い時間を経て――理解できるようになっていた。

晴子さんはあの夏以降、保母の仕事の手伝いをしているそうだ。ちゃんとした保母の資格がないので手伝いという扱いではあるんだけど、噂によると結構評判の仕事ぶりらしい。そのうち資格も取って、正式に保母として雇われたいんだそうで。なんとなく、晴子さんと子供達のやり取りが目に浮かぶようで、思わず笑ってしまう。

「なんやその笑いは……。なんかオモロイことでもあったんか?」
「いえ……。ちょっとした思いだし笑いですよ」

晴子さんのジト目に、軽口で言葉を返す。いつも晴子さんには笑われているんだから、ちょっとくらい私が笑ったところで罰は当たらないと思う。

晴子さんは呆れたような表情で、

「思い出し笑いは格好つかんでー。学年成績トップがそんなんなら、他の子達も格好つかんやろー」
「あはは、それは私に言う言葉じゃないですよ」

ちらりと美凪の方を見る。彼女は分かっているのか分かっていないのか、少しばかり首を傾げるだけで何も言わなかった。

ひとしきり笑った後、夏の風が私たち三人の間を通り抜けていく。

「……はやいもんやな、季節が移り変わるんは……」
「そうですね……」

あれから秋が来て、冬が来て、春が来て、また夏がやってきた。けど、この夏は去年の夏とは違う夏。他の人には些細な変化でも、私たちにはあの夏が特別だったから。

澄み切った青空に、大きくそびえ立つ白い入道雲。夏の光は変わらない。それでも、私はあの夏が遠い日の出来事のように、またいつだって鮮明に思い出せる。この夏と、あの夏の違いを。

髪に結んだ白いリボンに触れ、想う。私に決意をくれた彼女を、決して忘れないために。

「でも、あの夏は変わりません。色んなことがあって、落ち込んだりもしたけど、最後には幸せになれたということを――私は彼女の友達として、その誇りがあります」
「茂美ちゃん……」

私は晴子さんと美凪に笑い返す。

「ところで、二人ともお墓参りに?」

と聞くと、美凪はぷるぷると首を横に振って、

「……いえ、晴子さんに捕まりました」
「……は?」

間の抜けた返事を返してしまった。視線を晴子さんに移すと、

「いやぁ、遠野さんとは久しぶりに会うたからなぁ。で、墓地への道を上っていく茂美ちゃんを見たもんやから、今日はコレやーってな」

コップをくいっとあおるようなジェスチャーをして、ウィンクする晴子さん。それだけで今日の晩に何をするのかが分かる。また、お母さんには友達の家に泊まってくるって言わないと……。

「あのー、私たち未成年なんですが」
「堅いことは言いっこなしやー。今日は久しぶりに思いっきり飲むでー!」

それだけで一気にテンションが上がる晴子さんには敵わない。ついでに言えば、今まで何度も未成年を主張してきたけどその主張が通ったことは一度もなかった。

私はお手上げのポーズを示して、美凪は少し微笑みながら、晴子さんは陽気な声で。

三者三様に道を歩いていく。所々に、笑い声を響かせながら。

その道を、夏の光を払うように微風が吹き抜けていった。

――Fin

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