Phantasy Garden

まず、この考察は「萌える男(本田透著・ちくま書房)」から導入されたものであるということを明言しておきたい。簡単に書評をまとめると、著者の意見にはある程度賛同できるが、その訴求力はいまいちなところであり、著者自身が「萌え」る男というほうに属する方なので恣意的な意見・解釈も多いように思える。つまるところ、萌える・萌えないという争いの当事者であるがゆえに、その主観が影響を与えているのではないかということだ。まぁ、人間であればどちらか一方に属していることになるので、全員が当事者ともいえてしまうのだが。多少懐疑的になってしまうのも仕方がないといいたい。

だが、それでもこの本に書かれたロジックはなかなか興味深いものだった。私自身もどちらかといえば「オタク」に分類される人間であり、「世間一般が言う恋愛」とは無縁の生活を送ってきている。それは自分自身のために時間を費やすのが精一杯であり、他人を構っていられないというのが建前があったりするのだが、そう考える人が「オタク」になる素質があるということらしいのだ。また、「恋愛」という行為を考える上で共通する意識があり、これが「萌え」に繋がっているのだという。詳しい内容は書籍に目を通してもらえば理解できると思うので、ここでは簡潔に説明するにとどめておく。

オタクが「世間一般の恋愛」に背を向け二次元的な「萌え」に傾倒することは、周囲からすると「気持ち悪い」「モテないから」「現実逃避」と見られることが圧倒的だ。外に出て、現実にいる異性と交流をもつほうがずっと健全だと言うだろう。これがまず思考停止の元になる。果たして、「萌え」ることが不健全だというのはいったいどんな根拠があって言われるのだろうか。そう考えたときに、感情を抜きにした客観的根拠というのは、ない。オタクは現実逃避をしているわけではないからだ。彼らは「純粋な意味での恋愛」(=以下純愛と記す)を求め、結果としてこうなったというだけだから。これら恋愛の起源などは作中にあるのであまり触れないが、恋愛というのは相手に自分の理想を押しつけるといった形態をとるがゆえに、昨今の「恋愛資本主義」においてはもはや「純愛」というべきものは存在しない。恋愛というものがパッケージングされた商品となり、理想とはかけ離れたものとなる。オタクはそのような恋愛は好まず、「萌え」ることによって空想の中にその理想を見いだす。宗教性の濃いものではあるが、そういった理想の恋愛を求めるには現実世界では不可能なのである。だからこそ、オタクは空想の世界(=二次元)に理想を求め、「萌え」るという概念を生み出した。

一方、日本のバブル期に栄えた「恋愛資本主義」というのは、「恋愛」による消費活動を推進する動きであるといえる。マスメディアはこぞってこの「恋愛資本主義」を推奨し、「異性にモテるためにはどうすればいいのか」というマニュアルを作っていったように思える。つまりマニュアル化された恋愛というべきだろうか、そこにあるのは「異性への精神的な尊敬」という恋愛の恋愛たる所以が消失し、恋愛は金で買う商品と化していった。それは援助交際や風俗などに限らず、マスメディアによって作られた「モテるための秘訣」というマニュアルに沿っていけば恋愛が得られるという構造そのものを指す。誰しもが「モテる」人はどういう人か、どうすれば「モテる」のかという定義をすり込まれ、その通りに行動していくのが「恋愛資本主義」だ。前述したオタクの行動とその概念は、この「恋愛資本主義」に真っ向から対立する。マニュアルから外れているからこそオタクは「キモい」「ダサい」と言われ、軽蔑されていたのだ。「萌え」という行為を軽蔑するのも、そのようにすり込まれているからである。

「萌え」ることは、別に不健全なことではない。むしろ精神的安定を得ることができるという意味で健全な活動ともいえる。人間は某かの心の拠り所を必要とするのだから、その対象が空想的存在の方が都合がいい。現実にいる人間は、そういった「神格的存在」にはなれないからだ。それに嫌悪感を感じるのは、「恋愛資本主義」によってそのように仕向けられたことである。以上が、作中の「萌え」の構造と「恋愛資本主義」の対立を要約して説明したものだ。

この構造はそれほど複雑ではなく、理解しやすいものではある。確かに「恋愛」という名前の商品が氾濫しており、そのようなマニュアルがあるように思えてならないし、マスメディアによる消費構造であるという理屈も納得できる。それに対立するオタク、「萌え」るという行為の心理、恋愛観念というのも的を得ていると思う。というのも、私自身、思い返せばこれに近い原理で行動していた節が多々あるからだ。「恋愛」というとらえ方は若干異なるようにも思えるが、守旧派的な「純愛」の考え方はほぼ一致している。今「世間一般で言う恋愛」に呆れ、自ら降りているという点でも同じだ。共感できるところも多いので、著者や私自身の話でみればこのように説明できる。

だが、私はこれが完全であるとも思わない。このロジックには暗黙の前提条件が存在し、その条件が本当に正しいのかどうかが疑わしいからだ。その前提条件とは、「オタクが純愛を求めて萌えている」というものである。作中ではこれ以外の理由で「萌え」に至るという説明はないし、またこれ以外の理由で「萌え」が生じたときを考慮しているような説明もない。これが主観的に書かれていると思ってしまう理由であり、無理なく納得するということができないところである。もしかしたら大多数のオタクはそうなのかもしれないが、明確な根拠もなくそういうにはあまりにも乱暴すぎるような気がする。

もう一つ納得いかないのは、「萌え」が自己完結的な行動であり、それに依存してしまう可能性があることに言及していないという点だ。「萌え」ることを心の拠り所とするだけなら話が簡単なのだが、それに傾倒しすぎることになりはしないかという疑問がある。これは、まず現状で「萌え」=「嫌悪すべきもの」であるという一般的価値観が取り払われていないので、何とも言い難い。そういった差別を受けるからこそ、依存性が高くなってしまうというようにも考えられるからだ。社会的に「萌え」が認められたときに、それでも依存してしまう人が多数派になったとしたら、社会そのものの衰退に繋がるかもしれない。依存が過ぎた人はやはり社会不適合者という烙印を押されるが、そうでなくとも手放しに「萌え」ることがいいともいえないと思う。宗教性のある、と前述したが、実際のところ「萌え」は宗教と変わりない。個人信仰とでも言おうか、その辺りが危険性を示唆し易いところかもしれない。とはいえ、こればかりはなんともいえないのが本音である。

このように、「萌え」ることが謂われない差別を受けるのも不公平であると思うが、一方で「萌え」ることに全て賛同するわけでもないというのが私のスタンスである。バブル経済がはじけ、恋愛資本主義を実践するのが困難になったとはいえその傾向は未だに強いし、これからもその考え方は残っていくだろうとも思う。しかし、それとは違う観念で生きていこうとする「萌え」を真っ向から否定されるのもおかしい。作中の最後には一元論的思考の批判と、多元論的思考の推奨が示唆されていたが、それには同意である。選択肢が増えるのだ、という感じで考えれば分かりやすいのではないだろうか。

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