Phantasy Garden

時々ふと思うんですよ。以前から部活仲間たちなどと話していると、なんというかこう、いいようもない虚脱感。どんな感動をも巻き起こすようなことを目の当たりにしても、平然と無感動でいられるような。

そのこと自体は、実を言うと私自身にとってはあんまり珍しいものでもなく、時折一人きりで過ごしたいときに感じる感情の延長のようなもので、このコラムでも往々にしてネタにしてきたこともあります。だけど、学業においてもそろそろ岐路を迎えつつある状態で、我に返ったときに自分自身の存在ということを改めて認識させられ、非常にちっぽけな印象を受けるというのがあまりにも情けないというか。

母方の祖母の死に目に居合わせたとき、その場にいなかった弟と父親を除いて、一番冷静に事の成り行きを見ていたのも私だったかと。兄も母も、目を腫らして泣いてました。兄の涙なんぞ久しく見たことはなかったんですが、それが非常に意外なような気がしたということを覚えています。私も悲しいとは思いましたが、ただ無表情のまま俯いていただけ。父親や弟に、泣き止まなかった母の代わりに祖母の亡くなった時刻をメールで知らせていた記憶もあります。

血も涙もない、とは思いませんけど、喜怒哀楽の感情がしっかりと発達してないんじゃないだろうかと疑問に思ったこともありました。とはいえ子供の頃はそんなこともなかったですし、やはり歳を重ねるに従って、どこかそういった感情を封じ込めるような言動をしてきたように思えます。そして、それが周囲に認められていて、自分自身もそう認めている。そのことがさらに、諦観という観念を強くさせているようにも感じます。そしてそう感じるたびに、無感動の闇が私自身を侵蝕するような心地を覚えるんです。

無気力・無関心・無感動の三無が叫ばれて久しいですが、私もその一部にあるということは否めません。が、これが社会現象というならば、こういった人間が多少なりとも居るということになるでしょう。その原因が何であれ、これらの人間が存在するということ、そしてこれは私の推測なんですが、それが増加傾向にあるんじゃないかという危惧。高度情報化社会として発展し始めてきている昨今、個人には多すぎる情報量が刺激を刺激として捕らえられなくなっていっているのではないかと。自らの実体験として、それらから身を守るための防衛術が無気力・無関心・無感動なのでは――と思ってしまいます。決してそれが最善の策ではないと分かっていたとしても。

その行く先が、人の命――ひいては自らの命にさえ無関心にならないように……。

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