Phantasy Garden

「ふぅ……」

勉強道具の入ったかばんを適当に放り出し、私は自室のベッドに腰を下ろして一息ついた。朝も早くから動いていると、夏の一日は非常に長く感じられる。今はお昼をちょっと回ったところ。ぼんやりと天井を仰ぎながら、奇妙な虚脱感を覚えて音のない嘆息をする。だけど、それも慣れてしまった。

高校が夏休みに入り、他の皆は色んなところに出かけて遊んでいる頃だろうか。私はというと、高校で進学希望者向けに実施されている夏期講習を受けていた。毎日午前中に、これといった授業ではなく指定されたプリントの問題を解いていくだけの、名ばかりの講習なんだけど。私の一日はこの夏期講習で始まり、午後は本を読むか夏休みの課題をやるかして時間を潰す。あとは休憩がてらに、任されている掃除や洗濯などをするくらい。

子供の頃からずっとそうだった。遊びに誘ってくれる友達もいなかったから、私は自然と自分ひとりで夏休みを過ごすのが当たり前になっていた。時折誘ってくれる子もいたけど、週に一度、あるかないか。でも馴染めないことも多かったり、仲良くなれても次の年には引っ越していたり。その繰り返しで、私は夏休みという存在をとくに嬉しいと思ったことはない。去年も、思い返してみれば『優等生』でいようと思ってずっと課題ばっかりこなしていただけだった。

独りが嫌だった夏。変えようと思っていた夏。だけど、挫折してしまった夏。行き着いた先は、結局また同じ、ひとりきりの部屋。本を読むのだって、勉強するのだって、私が本当に望んでいることなんかじゃなかった。でも私にはそれしか――。

「うん……?」

そのとき、思考を中断させるかのように電話の鳴る音が聞こえる。誰だかわからないけど、今の鬱屈した気分を晴らしてくれるならちょうどいい。

自室のドアを開け、階段を下りて、リビングにある電話を取る。

「はい、川口ですけど」
「――今、神尾観鈴の家からかけている。俺のこと、覚えてるよな?」

聞こえてきた声は全く予想外の人だった。けど、その声を聞いて十日ほど前の電話の記憶がすぐに甦る。わけの分からないいたずら電話の主。だけど、何故今になってこの人が電話をかけてくるんだろう? あの時は冗談半分な感じだったけど、今は打って変わってそんな余裕はあんまり感じられない。むしろ、どこか焦っているようにも聞こえる。

「はぁ……」

とりあえず、出てきた言葉は単なる生返事だった。何のために電話してきたのか明確な目的が分からないから、相手の言葉を促すしかないんだけど――。

「今すぐ観鈴……神尾のところまで遊びに来てくれないか?」

――その言葉に、思わず身体が震える。この退屈な夏に、私が欲していた言葉。

そのはずなのに。

どうしてだろう。今は、その言葉を受け取りたくない。

「ええと……」

すぐに返事できず、言いごもってしまう。承諾することは簡単なのに、私はいったい、何をためらっているんだろうか。誰かから、そう言葉をかけてくれるのを待ち望んでいたはず。しかもその相手は神尾さん。誘いを受けることに、何の不都合があるんだろうか。

だけど、理屈じゃなくて、私の感情がその承諾を拒否している。何に対してなのか分からないけど、私は自分で自覚するくらい不愉快な気持ちになっていた。とても、その誘いに乗れる気分じゃない。

「すみませんが、わたし、これから家族で旅行に行くんです」

できるだけ感情を押し殺して、さらりと告げる。家族で旅行に行くというのは半分嘘で、半分本当。明日は久しぶりに両親そろって休みが取れたので、日帰りだけどどこかに旅行に行こう、という話になっていた。

だけどそれは今、誘いを断る理由にはならない。本当のような嘘で、相手に諦めてもらうのと自分自身をそう納得させて身を守る、卑怯な手。それでも、私はもうこの電話を切ってしまいたかった。

「それじゃ……」
「待ってくれっ!」

突然、受話器の向こうで叫び声があがった。驚いて身をすくめていると、彼はそのまま言葉を続ける。

「具合が良くないんだ。俺だけじゃどうにもならない。誰かの助けが必要なんだ」
「えっ……?」

思わず、聞き返す。

「神尾さん、また泣いているんですか?」
「わかるのか?」

今度は逆に聞き返されて、少しだけ逡巡する。けど、言葉は口から既に出ていた。

「クラス替えの時、近くの席だったから、仲良くなりたかったんですけど……。神尾さん、泣いちゃって。理由を聞いても教えてくれなくて。なんか、それっきり気まずい感じになっちゃって……」

言いながら、私はそれも詭弁であることに気づいていた。神尾さん自身からは彼女の発作について聞いてはいないけど、霧島先生からそのことは伺っていたんだから。気まずい関係を作ってしまったのも、それを改善しようとしなかったのも、事情を知っている私がなんとかするべきだったこと。

「それは観鈴が悪いわけじゃないんだ。とにかく、来てくれないか?」
「でも……」

分かっている。彼女が悪いのではないということも。それでも、私は――。

「頼む。今すぐでなきゃならないんだ」

電話の先から聞こえる、必死の懇願。なんでこの電話の主はそこまで彼女のために必死になっているんだろうか。それほど彼女の具合が良くないんだろうか。でもよくよく考えてみれば、具合が悪いから友達を呼ぶという論理もあんまり説得力がないように思える。だから、つい本音がこぼれてしまった。

「あの、失礼ですがそちらは、観鈴さんの……?」
「俺? ええと、俺は……」

どうやら、その質問は相手にとって予想外だったらしい。彼女の兄弟だとか従兄弟だとか思っていたけど、何か複雑な事情でもあるんだろうか。怪訝に思っていると、ちょっと電話の声が遠くなったような感じがする。だけどそれも一瞬のことで、すぐに声が聞こえてきた。

「神尾です」

電話の相手の声が変わった。久しぶりに聞いた気がする、神尾さんの声。でも、どこか声に覇気がない。さっきの人が心配していた理由がちょっとだけ分かった。彼女の発作が原因なのかどうかは分からないけど、何かの理由で彼女の体調が優れないんだろう。

だから彼女に負担をかけないよう、私も努めて普通の態度で振舞う。

「あ、神尾さん。えーと……申し訳ないんだけど、今日はちょっとそっちに行くのは無理なの」
「うん……そう。そうだよね。にはは……」

彼女の乾いた笑いが――私に罪悪感を覚えさせる。

「明日、旅行に行くことになっててね。準備もあるし……」
「そうなんだ……うん。来なくてもいいから……」
「でも、大丈夫? さっきの人、かなり心配そうだったけど……」
「大丈夫だから……」

それが嘘だということなんて、すぐに分かる。消え入りそうなくらい、力のない声。彼女が無理をしていることは明らかなんだけど、それでも無理をする理由が彼女にはあるんだろう。彼女の、他人に迷惑を掛けたくないという気持ち。それは、今の私には辛い。

「そう……。それじゃ今度、旅行のおみやげ持って行くからね。その時にでも」
「にははっ……待ってるね、おみやげ」
「うん、じゃあまた」
「それじゃ」

がちゃっ、という音と共に通話が切れる。耳元で無機質なトーンが響き、一拍置いてから私も手に持っていた受話器を置いた。

途端に、私の心に激しい自己嫌悪の念が渦巻く。すぐさま電話を掛けなおして彼女に謝りたい。この罪悪感を払拭してもらいたい。具合が悪いんだったら、単にお見舞いに行くだけでも十分だったのに。そういえばよかっただけの話ではなかったんじゃないか。

だけど――私は今の電話の最中に、気づいてしまった。

あの日、彼女と仲良くなって。堤防から落ちて診療所に運ばれて。彼女が持っていて、私にはないものに気づいてしまった。あの頃に感じていた妙に憂鬱な感覚も、気のせいではなかった。

その不快感の正体は、私が独りであるということ。彼女には、彼女を信頼して支えようとしてくれる人がいるということ。私の両親は、私が怪我をして診療所に運ばれたときでさえ、迎えには来てくれなかった。帰宅した後にちょっと容態を訊かれただけ。

対して神尾さんの親御さんは、私の意識が戻る以前に診療所に駆けつけ、彼女を連れて隣町の病院にまで連れて行っていた。そのときは、神尾さんがちょっとした持病のようなものを抱えているんだから、ということで納得していたと思い込んでいたんだ。

そうじゃなくて、私は羨ましかった。それだけ周囲に愛されている彼女が。彼女の親御さんも、今の電話の人も、皆彼女を心配している。私だって孤独に苦しんでいるのに、私を支えてくれる人はいない。がらんとしたこの家がそれを物語っていた。いつ帰っても、この家には、私一人。

今まで無意識のうちに封じ込めていた感情があふれ出てくる。それは嫉妬という、どす黒い感情。電話の中で感じた苛立ちも、奇妙な憂鬱も、自分が認めていなかっただけで常に見え隠れしていたんだ。彼女と何度も話そうとしてその度に諦めていたのも、もしかしたら心のどこかでそれに気づいていたのかもしれない。むしろそう考えたほうが納得できてしまう。

神尾さんは周囲から支えられて当然のはずだ。先天的な発作を抱えているんだし、誰かが見ていないときに突然意識を失うこともあるかもしれないんだから。それと比べて私は健康なのだ。多少体が弱いとはいっても、病気と診断されるものではないはずだ。だから私が、神尾さんのように周りから支えてもらおうと考えるのは単なる甘えでしかない。友達が出来ないのだって、私が不器用なだけだ。理屈は、そうなんだ。

感情が爆発しそうになるのを、理性によって自制する。泣き叫んで衝動のままに気持ちをぶつけたい欲求も、自律心が抑え込める。こういうときは、いつも鬱陶しいだけの優等生の仮面も便利だった。誰も見ていなくても、自分自身に対して醜態を晒したくない。それが私のちっぽけな誇りだった。今ほど、その誇りを捨てなくて良かったと思ったことはなかったけど。

でも、しばらくは彼女と会えそうにはない。今、電話ではなんとか抑えられていた感情も、じかに会ったときに抑えられるかどうかは自信がなかった。醜い私の心のほとぼりが冷めるまで。私が彼女を認めて受け入れられるようになるまで。

夏が、終わるまで。

八月。暦の上では立秋を過ぎてしまったけど、容赦ない太陽の日差しを浴びると思わず気が滅入ってくる。今年も残暑は厳しい。そんな日に外を出歩くのもなんだか狂気の沙汰に思えてくるけど、夏期講習はお盆休みと日曜日を除いて毎日あるんだから行くしかない。講習を申し込んだからには行くべきだという義務感と、あとはどうせ家にいてもすることがないという暇潰し程度のものだけど。公の場に出てくれば嫌でも自分を律していく必要があるから、怠惰に流されてしまいそうな弱い心を抑えるには都合がいいというのもある。自分の意思だけで自分を制御する自律よりも、他の圧力で強制的に制御される他律のほうが、納得いかないことがあっても責任を他に転嫁することが出来るから。

でも、それが許されるのは、子供だけだ。大人は自律しなければならない。どこかでそのスイッチを切り替えなければならないのに、今の学生たちはそのスイッチを切り替えることが出来ていないという。責任だけを回避して、大人であると主張する。義務を守らず、権利だけ主張するようなものだ。だから彼らはまだ子供なんだ、と今朝の新聞に書いてあった。何か学生が起こした事件のコメントだったような気がするけど、なんだか妙に感心してしまった。今の自分が、まさにそうだから。

毎日来ている、高校の教室。壁に掛かった時計の針は十一時を少し回ったところを指しており、もうすぐ今日の夏期講習も終わる。といっても配布された問題のプリントは既に回答済みだから、答のプリントを貰って答合わせするだけなんだけど。二年生のうちから進学を考えている人って少ないんだろうか、と数人しかいない夏期講習の様子を眺め、右手でシャープペンシルを弄びながらぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。

結局七月末の旅行から帰ってきた後、未だに神尾さんと連絡を取っていない。なんとなく、電話をかけるのが憚られて何も出来ずに過ごしていた。以前、彼女が夏休みの補習クラスに来ているのを見かけたことがあったので、お土産は学校に登校してきた時に渡せばいいだろうって思っていたんだけど。どうやらあの電話の前後から彼女は学校に来ていないらしい。そんなに体調が悪いんだろうか。それならお土産を持ってお見舞いに行ってもおかしくないのでは。

いや、と頭を振って否定する。体調が悪いときに無理をさせてまで起こすことになったりしたら、それこそ邪魔にしかならない。それにお土産といっても――鞄の中から袋に入ったそれを取り出し、手に持って見つめる。中身は、イルカを模した髪飾り。そんなに高価なものじゃないけど、宝石みたいな装飾が凄く綺麗で、神尾さんなら似合うんじゃないかと思って買ってきたもの。けど、体調が優れないときにこんなのを貰ってもあんまり嬉しくないんじゃないだろうか、とためらってしまう。

そもそもお見舞いに行くにしたって、私は神尾さんの家を知らない。隣町じゃなくて、こっちの町に住んでいるだろうということくらいしか予想がつかない。ちょっと調べれば分かると思うけど、行く理由がないのにそこまで調べるのもなんだか不気味じゃないだろうか。

どうせ夏休みが終われば、二学期が始まれば、またこの教室で会えるんだから。そのときにこれを渡して、また彼女と仲良くやっていけるように頑張ってみるのも悪くない。クラスの奇異な視線だって、そのうち収まる。夏休みという長い間を置けば色んなことが変わるんだから、その小さな変化の一つなんだ。私の、小さな心の変化として。今度こそ、選ぶ先を間違えないように。

そこで思考を切り上げると、ちょうど講習担当の教師が教室に入ってきた。いつも通り答のプリントが配布されて、採点して、提出する。明日からはお盆休みで、夏期講習もない。私にとってはやることがなくなるだけだけど、何も考えず、ゆっくり過ぎていくこの町の時の流れに身を任せて過ごすのも中々魅力的だ。日がな一日散歩して、色々と理由をつけて今まで見ようとしなかったこの町を散策してみよう。いつの間にか忘れていた、草木の匂いを思い出しに。

鞄に筆記用具と参考書を詰め込みながら窓に目線をやれば、その先に見える綺麗な海。透き通るような青空。この町の夏は、どこか優しい。

それはちょうど夕食の支度時。夕焼けがやけに紅くて、窓から覗く筋雲が綺麗にたなびいていた。夏の夕暮れらしくヒグラシが鳴き、涼やかな風が窓際に掛けた風鈴の音を奏でている。その心地良い響きを聞きながら私が夕飯のお米を研いでいると、リビングの電話が鳴った。この時間帯の電話はセールスが多くて嫌なんだけどなぁ、と心中でぼやきながらも蛇口をひねって水を止め、タオルで手を拭きながらリビングへと足を向ける。セールス電話だったら即座にたたっきってやろうかなどと思いつつ、受話器をとる。

「はい、川口です」
「――もしもし、川口さんか。今、電話大丈夫か?」

電話をかけてきたのは担任の教師だった。担任の教師が直接電話してくるのは珍しいというか、今までの学校生活を思い返してみても初めてのことだ。普段は、連絡事項などは連絡網で回すはずなのに。何か私に関わることが起きたのか、それともよほど緊急の用があるんだろうか。どちらにしろ、なんだか担任の声音は雲行きの怪しい雰囲気を醸し出していた。

「はぁ……大丈夫ですけど。どうかしましたか?」

そう問いかけると、担任の教師は神妙な様子で言葉を続ける。

「実はな、神尾さんが亡くなられたそうなんだ」
「えっ――!?」

一瞬、耳を疑う。けど、担任は淡々と述べていく事情が、その疑いを許さなかった。

「ついさっき、神尾さんの御家庭のほうから学校側に連絡があってな。学校も盆休みで用務員の人しかいなかったんだが、そこからすぐに先生のほうに連絡が回ってきた。なのでとりあえず、うちのクラスだけ明日は緊急に登校してもらう。詳しい内容もそのときに話す。事の緊急性もあるし、この時期は皆旅行やらで連絡網がうまく回らないだろうから、直接先生が一人一人に電話をかけているんだ」

分かりやすい、端的な説明だった。疑問を挟む余地もないくらいに。だけど、私の頭の中にはその半分も入ってこない。

「――だから、明日は九時に教室に集合だ。……もしもし? 川口さん、聞いてるか?」
「え……あ、はい。明日は九時までに登校ですね」
「そうだ。それじゃ、また明日学校で」

担任はそれだけ言うと電話を切った。私は、震える手から滑り落ちそうになる受話器を、なんとか元に戻す。だけどそれ以上、動けなかった。電話の前で、立ち尽くすことしか出来ない。

神尾さんが亡くなった――。

簡単な電話の内容は、本当にそれだけだった。だけど、その一つの事実が、私には受け入れられない。彼女の死なんか認めない。認めたくない。そんな馬鹿みたいな話が、あっていいはずがない。

なんで? なんで彼女が死ななくちゃならないの? 一ヶ月前は、普通に学校に登校してきていたのに。先月末には調子が悪くなっていたみたいだけど、電話にだって出られたんだし、ましてや死ぬなんて。たちの悪い冗談としか思えない。夏休みが終われば、また同じクラスで勉強するはずじゃなかったのか。ほんのちょっと会えなくなるだけじゃなかったのか。何か、悪い夢でも、見ているんだろうか。

思考が混乱する。まともにものを考えられない。立っているのが、とてつもなく辛い。けどここで足を崩してしまったら、二度と立ち上がれなくなってしまう。私の心が折れてしまう。私が、私でなくなってしまう。そんな気がする。

「どうして……」

言葉が漏れる。不思議と涙は出てこなかった。ただ、身体がこれ以上ないほどに震えている。抑えようとしても抑えられない。というか、必死に自分を抑えてなんとか今の精神を保てているような感じ。気を抜くと、そのまま気を失ってしまいそうなほど。

「どうして……」

気持ちが悪い。胸焼けのような心地悪さが、全身を駆けずり回っている。息をすることさえ辛くて、苦しい。壁に手をつけて支えていた腕に、じんわりと冷や汗がにじんでくる。

「どうして……」

膝の力が抜け、その場にくずおれる。立ち上がれない。意識と身体が分離してしまったかのように、身体の全てが脱力していた。それと同時に、私の中で何かが音を立てて崩れていく。自分の、隠し続けていた醜い心が、神尾さんの死という事実と共に突きつけられる。誤魔化し、騙し続けていた報いが、今私の眼前にはっきりと現れていた。悪い夢なら、覚めて欲しい――。

その夜はリビングのソファで、寝ているとも起きているともつかない状態のまま過ごした。幸いというか不幸というか、お父さんは出張で家を空けていたし、お母さんも親戚の法事でそのまま一日だけ泊まってくると言っていたから、誰かが私に干渉してくることはない。たとえ焚きつけられても、何もする気にはなれなかった。ただ、ひたすら自分の中で過去を繰り返している。でも、単に仮定を持ち出してああすればよかったんじゃないかとか、こうすればこんなことにはならなかったんじゃないかとか、全く意味のないことを繰り返しているだけ。その度に、意味のないことだと自分に言い聞かせ、そんなことを考えようとする自分に呆れ、思考の堂々巡りで時を過ごす。

神尾さんとの思い出は、始業式の帰りに堤防で喋ったことくらい。それ以外の思い出は苦々しくて自分の嫉妬の感情を思い出すだけで、何の慰めにもならなかった。

そもそも、神尾さんとはそんなに長い付き合いをしていたわけではない。人生のわずかな一瞬に邂逅しただけの人に、私は何をそこまで思いつめているのか――そう思ってしまうたびに、すぐに自責の念が押し寄せる。そんなの、本当の自分と真正面から向き合いたくないだけの言い訳に過ぎない。今まで私が出会ってきた人、付き合ってきた関係、それらをひっくるめて今の私があるんだ。神尾さんだけ特別に、自分を隠して付き合っていたわけだったんじゃない。その前も、その前の前も、私はずっと他人から自分を隠し続けてきている。その報いが、今の、この、罪悪感。神尾さんの死というきっかけで、それに気づいただけ。

だから、涙なんか出るわけがない。私が今ここで打ちひしがれているのは、他人の死に触れたからという理由じゃないんだ。単に、隠していた自分を突きつけられて動揺しているというだけ。弱くて浅はかな自分を、嘲笑っているだけ。

最低だ。人として。傍から見れば友人の死を悼んでいるようで、その実自分のことしか考えていないんだから。この期に及んでまで、自分に嘘をつこうとする自分が憎い。かといって、開き直って立ち上がれるほどの傲慢さも持っていないし、全てを諦めて投げ出してしまうほどの無責任さも持っていない。矛盾する感情の中で、その浮き沈みに身を任せているだけの弱い人間だ。いい成績とか優等生とかそういう言葉を馬鹿正直に受け止めて、私は自分の心の強さを磨くことを忘れていた。そんな人間が、強いはずがない。自信を持てる部分など、何一つ持ち合わせていない。

だから、立ち上がれない――だけど、立ち上がらなくちゃ。

あまりにも長い夜が少しずつ過ぎ去っていく。窓から見える空が白み始めている。頭がぼんやりとして、目が霞む。眠気を感じないわけではなかったけど、今更寝るわけにもいかない。

「とりあえず、学校に行く前にシャワーを浴びておかないとね……」

昨日の電話の後は何もしていなかったんだから、勿論のことお風呂にも入っていなかった。さすがに、夏場にそのまま学校へは行きたくない。そんな都合でしか動き出そうともしない自分に、そしてそういった都合なら動き出せる自分に、また一つ呆れてしまう。ふらふらとしながら、なんとか立ち上がってお風呂の準備をしにリビングを出て行く。

私の夏は、いったいどうなってしまったんだろうか。闇の中を彷徨うような、先の見えない不安。感じるものは、寂寥だけだった。

「――ったく、なんで夏休みの最中に学校に来なきゃならねぇんだよ」
「九時集合って、担任もこんな朝早くに呼び出すなよなぁ。どうせ大して話もしないだろうし」

夏期講習とは違い、普段のような賑わいを見せる教室。昨日の電話の通り、今日はうちのクラスだけ登校してきている。けどやっぱりお盆休みで出かけている人もいるんだろう、クラスの十人くらいは来ていないようだった。面倒だとか思ってきていない人もいるのかもしれないけど。

時刻は八時五十分。担任の教師が来るまではもうちょっと時間があるだろうか。皆、それぞれの友達と夏休みのことを思い思いに喋って過ごしていた。友達同士で集まって海へキャンプしに行こうとか、数日前に台風で延期になった夏祭りの予定あわせはどうしようとか、これからの楽しいイベントに期待を膨らませている。まだ夏休みは終わっていないんだから、夏休み明けのように夏の思い出を振り返るばかりじゃない。彼らにとって、今この場はそういった打ち合わせの場のようなものなんだろう。

そんな雰囲気をよそに、私は自分の席で俯きながら担任が来るのを待っていた。他の誰とも、喋ることはなく。今の気分じゃ雑談さえ聞きたくもないんだけど、周りからの話し声は意図せずとも耳の中に飛び込んでくる。

「そういえば、亡くなったのって神尾さん? あの子発作持ちみたいだったけど、そんなに重い病気だったっけ?」
「さぁ……。一学期は普通に来ていたと思うんだけど、よくわかんない。遅刻は多かったけどね――」

近くの女の子の話。所詮、彼女らにとってはその程度の認識しかないんだろう。神尾さんが死んだということに対して、興味も関心もないという感じ。同じクラスメイトだったのに何の感慨も湧かないのか、という怒りにも似た感情を覚える。

けど、それは私も同じなんだ。一学期に神尾さんを見捨てて、私はその彼女たちと同じように振舞うことを選んだ。彼女たちのほうを友達だとみなした。今更、本当は神尾さんのことを心配していたんだなんていっても、説得力のかけらもない。浅ましい偽善者としか思われないだろう。私が、彼女らを叱る資格はない。

「だいたい神尾って、いつも一人でぼけっとしているだけの訳わかんない奴だったろ? 誰かが話しかけると泣き喚くし。そんな奴なんかのために、なんで俺らの貴重な夏休みを潰されなくちゃならないわけ?」
「ウゼェよなぁ。死んでまでこっちに迷惑かけんなよ、って感じだな」

――その言葉が耳に入ってきたときは、本当に我を忘れて怒鳴り返してしまいそうだった。あまりにも無神経な、男の子の声。本人たちは冗談のつもりかもしれないけど、故人を侮辱するのは恥ずべき行為だ。首を動かして彼らを睨みつけても、当の本人たちは全く気づかずに笑いあってる。周りにいた女の子たちも先ほどの男の子たちの言葉に眉をしかめはしたものの、面と向かって文句を言わないほうがいいと判断したのだろう、これといった何かが起こることもなくその場はそれで終わってしまった。

私も、結局周りの女の子と同じだった。男の子の無神経な発言を咎める勇気もなく、そのまま黙って目を逸らし、俯くしかなかった。相手が逆上してこっちに殴りかかってくるんじゃないかという恐怖もある。けどそれ以上に、無神経なその意見が実際にはクラスの大半の意思を反映しているんじゃないかという気がして、それに異を唱える私が仲間はずれにされるんじゃないかという怯えのほうが強かった。正論が通じないときもあることを知ってしまっているからこそ、私は激情に任せて行動しない。むしろ、できないと言ったほうが正しいだろうか。言い出せない悔しさの反面、どこか安堵を感じている自分がいた。それに気づいて、虚しさと同時に自己嫌悪する。

しばらくすると、担任が教室の扉を開けて中に入ってきた。それを認めたクラスメイトは、友達との雑談をそこそこに切り上げて各々の席へと戻っていく。

「みんな、おはよう。昨夜電話で話したとおり、クラスメイトの神尾さんが昨日亡くなられた。色々と話さなければならないこともあるが、まずは彼女に黙祷を捧げよう」

担任がそう言うと、皆一斉に眼を閉じて黙祷を始める。私も同じように黙祷を捧げる。けど、それがまやかしの祈りでしかないことは、さっきまでの雑談の内容を振り返ってみれば分かることだ。誰も、本気で彼女の死を悲しんでなんかいない。だからこそ、この形式だけの黙祷に悔しさを感じる。

「黙祷、止め」

担任が黙祷の終わりを告げる。同時に訪れる、いかにも面倒だと雰囲気。私はただ、耐えることにした。

「――神尾さんが亡くなられた原因は、みんなもある程度察知しているかと思うが、彼女の発作に因るところだそうだ。先月末から急速に発作が悪化し、今月に入ってからはほとんど立てなくなるくらいに病状が悪化していたらしい。本人の希望で入院はせず、自宅で療養することを選んだそうだが、御家族の努力もむなしく残念なことになってしまった。だからみんな、立派に生きていた彼女のことを忘れないように」

今の私には、その担任の言葉さえ単なる飾りのようにしか聞こえない。そうして釘を刺しておかないとクラス全員が忘れてしまうとでも言いたげな担任の言葉と、けど釘を刺しても夏休みが明ける頃には忘れてしまうであろうクラスメイトと、そしてそんな否定的な邪推しか出来ない自分に、呆れと諦めが入り混じった感情を覚える。

「――ということだ。だから明日の神尾さんの葬儀には学校代表として、先生とあと二人、出席することにしている。クラス全員はさすがに迷惑が掛かるからな。誰か、葬儀に出席したいという人はいないか?」

神尾さんの葬儀。周りを窺ってみると、とくに誰も出席したいという人はいないようだった。まぁそれは案の定、というところなんだけど。私は、どうなんだろう。彼女とちゃんとお別れをするなら、少なくとも私の気持ちの整理をつけるという意味でなら、出席する意味はある。だけど、それは単なるエゴじゃないだろうか。私が彼女の葬儀に出席することは、許されるんだろうか。

「誰かいないか? できれば、こういったことは自発的な気持ちを優先したいんだが」

担任が促す。皆は一様にして押し黙り、俯いて視線を合わさないようにしている。私はその中で、葛藤を繰り返していた。

「――私、行きます」

静寂を破るその声に、クラスの皆が声を発した本人を見た。それは私じゃなく、学年トップの成績を誇る遠野美凪さん。参加者の少ない夏期講習にも来ていたので、よく覚えている。けど、どうにも馴染みにくい雰囲気を持っていて――神尾さんとはまた別の意味で、クラスから浮いている人だ。実際、彼女が他の誰かと親しげに話しているという姿は見たことがない。かくいう私も少しだけ彼女と話したことはあるけど、会話として成立していたかどうかに疑問を覚えるくらい、コミュニケーションがとりにくかったということを苦々しく記憶している。成績や器量については非の打ち所がないんだけど、天才肌というんだろうか、何を考えているのか分からなくてつかみ所のないという感じの人だった。

だけど何故彼女が、という疑問を感じずにはいられなかった。それはクラスの皆も同じ気持ちだったようで、不可解な存在を見るかのような無遠慮な視線で遠野さんを見つめている。当の本人はそんな視線など全く気にしていないようだったけど。でも、特別に遠野さんと神尾さんが仲が良かったというわけでもなかったし、やっぱり不思議に思わざるを得ない。彼女の真意は何なんだろう。

「それじゃあ遠野さん、よろしく頼む。あと一人、誰かいないか?」

担任が、心なしか満足そうに言う。遠野さんが出席したいと申し出たことで、クラスはにわかにざわつき始めていた。それは別に彼女が申し出たからという理由ではなく、静まり返っていた教室内で喋るきっかけが出来たからという理由のようだけど。穴の開いた風船のように、張り詰めた緊張が一気に解けていく。

「他には誰もいないのか? どうしようもないのなら、くじか何かで決めることになるが……」

担任の声の調子から、私が決断するまでの時間がそんなにないことが分かった。ざわめきが大きくなりつつあるクラスを静めるには、早めに出席する人を決めてしまうほうがいいから。だけど、私はまだ踏ん切りがつかない。もう何もかもに耳を塞いで、ほとぼりが冷めるまで待ったほうがいいんだろうか。

でも、それは一生後悔しそうな気がする。今までずっと、消極的に生きてきた私の直感。

「仕方ないな、それじゃ――」
「私も、行きます」

担任の声を遮って、私は精一杯の勇気を叫んだ。クラス中の視線、担任の視線が私に突き刺さるのが分かる。私の勇気は、果たして彼らにはどのように映ったんだろう。意外なことだっただろうか、それとも当然のことだっただろうか。それを知りたい気持ちと知りたくない気持ちの葛藤を繰り返しながら、私はただ毅然と担任のほうを向いてその言葉を待っていた。

「そうか。それじゃ、川口さんに出席してもらう。二人はこのあと、明日の連絡があるから前に来てくれ。他の人は今から配るプリントを受け取ったら、各自解散するように」

担任がそう告げると、クラスは倦怠とも安堵とも取れなくもない雰囲気になる。溜息や、疲れを叫ぶ声。プリントを受け取ってさっさと出て行くクラスメイトたち。彼らにとっての、無意味な時間は終わったんだろう。私はそれらを無視して教壇のほうへ近づき、担任の連絡へ意識を向ける。

「二人とも、明日は午後一時に学校に来てくれ。この教室じゃなくて、校門の前に集合だ。そこから歩いて神尾さんの自宅まで行くことにする。用意しなければならない持ち物はないから、手ぶらでいいだろう。服装については喪服じゃなくて、学校の制服でいい。一応、学校代表ということだからな」
「はい」
「……わかりました」

それぞれ、返事する。連絡事項といってもそれだけだったらしく、担任はこちらの返事に頷くと余ったプリントをまとめて足早に教室を出て行った。これから会議でもあるのだろうか、それに対しては特に何も思わなかったけど。

先ほどまであれほど騒がしかった教室は、既に夏休みの静寂を取り戻していた。廊下の先からはまだちょっと喧騒が聞こえてくるけど、それを除けばいつもの夏期講習のときと同じ、静かな教室。窓の外の青空が、いっそう世界の孤独感を感じさせる。

でも今は一人じゃない。その静寂に溶け込むかのように、彼女は居た。

「遠野さん」

呼びかけると、彼女は静かに私のほうへと向き直る。どこか焦点の合っていない瞳が、こちらの姿を映し出していた。彼女のほうが幾分背が高いこともあって、私は少しばかり彼女を見上げないと視線を合わせられないのだけど。

「……どうかなさいましたか?」

鷹揚な様子で、彼女は応える。マイペースというか何というか、やっぱりどうにも話のテンポが掴めない人だ。

「ええと……遠野さんは、神尾さんと仲が良かったんですか?」
「…………? あまり、話したことはありませんでしたが……」

何が訊きたいのか分からないと言いたげに、遠野さんは首をかしげる。けど、この質問にはあまり意味はなくて、単に確認したかっただけ。

「それじゃあ――どうして神尾さんの葬儀に出席しようと思ったんですか?」

遠まわしな言い方では通じないと思い、失礼かもしれないけど単刀直入に訊く。遠野さんは視線を外し、沈黙する。問いの答を考えているのか、答えることを躊躇しているのか、それともまた別の何かが理由なのか、私には分からない。時が止まったかのような錯覚を覚えながらも、私はただ佇みながら遠野さんの言葉を待つしかなかった。

「……それは――クラスメイトだから、です」

しばらくした後に静かな教室に響く、遠野さんの声。

「え――?」
「……?」

思わずあげてしまった私の声に、遠野さんが不思議そうに首をかしげる。

あまりにも単純な理由。仲がよかったわけじゃないし、話したこともない人、だけどクラスメイトだから――彼女はそう言っただけで、さらに言葉を続ける様子もなくこちらを見て佇んでいる。

私は、そう考えることができなかった。だって、それを認めるということは――。

「…………」
「…………」

だから私には遠野さんの言葉がひどく意外に聞こえた。けど、遠野さんはそれ以上何も言おうとしない。もしかしたら、不躾に聞いた私に本当のことなんか話したくないのかもしれない、とかそういうことなのかもしれないけど、彼女の様子を伺う限りではそうとも思えなかった。だったらそれが彼女の本心なんだろう。

「ん……なんでもないです」
「……そうですか」

彼女は、あからさまに何かあるだろうと分かる私の反応にも、何も追求しようとはしてこなかった。それが彼女なりの気遣いなのか、それとも単に他人の機微に疎いのか――私には分からない。けど、それは今の私には有難かった。たとえ追求されていたとしても、何も答えることができないから。

「それじゃ、また明日ね」
「ええ、また明日……」

遠野さんにお辞儀をして別れを告げ、私は教室を出る。遠ざかった喧騒がまた聞こえてきそうなくらい廊下は静かで、私の足音だけがそこに響いていった。

「あれ? 鍵が開いてる……」

学校から帰ってきて、いつものように玄関のドアの鍵を開けようとして、気づく。朝、学校へ出かけるときは鍵をかけておいたはずのドアは、取っ手を回すだけで開いた。時間はまだお昼前だから、誰もいるはずなんかないんだけど。

「ただいま」
「あら、おかえり」

家に帰ってきたときの習慣となっている言葉に、珍しく返事があった。洗濯物を干し終えたところなのか、居間のほうから洗濯物かごをもって顔を出したのは、いつもはいないはずのお母さん。

「あれ、今日は仕事ないの?」
「何言ってるの。昨日は法事で叔父さんの家に泊まって、今日のお昼には戻ってくるって言ったじゃない」

――そうだった。言われて、ようやくその事実を思い出す。明け方の頃は覚えていたはずなのに、やはりどこかまだ頭が冷静になりきれていないのかもしれない。

「そういう茂美こそ、どこへ行ってたの? 今は夏期講習もお休み期間なんでしょう?」
「ちょっとね、クラスの子が亡くなったみたいだから……。昨日の夜に担任から連絡があって、今日の朝に臨時登校してくれって言われたの」

靴を脱ぎながら、お母さんの疑問に答える。目は見られないように、俯き加減にしながら。

「ふぅん……。茂美は、その子と仲良かったの?」

一瞬、その返答の言葉に詰まる。私が学校で遠野さんにした質問と、全く同じ質問。お母さんがとくに何か知っていて訊いている訳ではないんだろうけど、それでもそれは私をヒヤッとさせるには十分だった。その問いに、嘘を言うべきか真実を言うべきか。単なる話題の延長のような質問だから、別にどっちを言ったところで差し支えがあるわけじゃないんだけど。

「――ううん。あんまり、話したこともなかった……」

わずかな逡巡の後に漏れた言葉は、遠野さんと同じ返答、客観的な事実だけ。でも、自分の言葉でそれを口にすることは、私自身がそれを認めたということに他ならない。それが、私には重くのしかかる。

小さな私の意地。私は、認めたくなかったから。神尾さんとは友達じゃなかったんだ、って――。

口を引き結んで、口の端から漏れそうになる泣き言を押しとどめる。たとえ実の母親でも、私は私以外の誰かに泣いているところなんか見られたくない。視線を落として、玄関からすぐの階段を早足で上っていく。

「茂美」

その途中で呼び止められて、心臓が飛び出そうなくらいドキッとした。これ以上、神尾さんの話題を話したくなんかない。その不安に気づかれないように、なるべく平静を装って母親の言葉を待つ。

「明日からお母さん、またパートが始まるから。いつも通り、よろしくね」
「……うん、分かってる」

追求ではない母親のその言葉に、私は少しだけ安堵した。いつも通り、というのは洗濯や掃除などの家事のことだ。お母さんも家計を支えるために働いているんだから、家事までやるとなるとお母さんの時間が足りなくなってしまう。だから私が暇潰しがてらに、お母さんの家事をある程度引き受けている。私が中学校に入る直前くらいからずっと続いている、いつも通りのこと。

「けど、私も明日は出るから」
「夏期講習? お休みは今日までだったかしら?」
「ううん。明日は、その亡くなった子のお葬式があるの。それに私が出ることになったから」

とりあえず明日の予定だけを、階段の下へと振り向かずにその場で告げる。階段の下から、お母さんがこっちを見上げているだろうから。

「そう――分かったわ」
「……うん」

素っ気無い母の返答に、私は聞こえないほどの大きさの返事をして階段を上りきった。

翌日も青と白のコントラストが鮮明な夏空が、窓からのぞいていた。時間は十時少し前。一昨日に寝れなかったせいか、今日はいつも起きる時間よりも遅く起きることになってしまった。お父さんはまだ出張から帰ってきていないし、お母さんももうとっくにパートに行ってる。中途半端な時間というのもあるけど、なんだか食欲が湧かないから朝ご飯を作る必要もない。午前中の間に掃除と洗濯を済ませ、学校の制服に着替えて支度をする。

「そういえばこれ、どうしようかな……」

机の上に置かれた、イルカの髪飾り。先月末の旅行で神尾さんのお土産に買ってきたものだけど、彼女はもういない。だから捨てたって構わないんだけど、私は捨てるに捨てられなかった。かといって別の誰かにあげるのも忍びないし、ずっと取っておくのも辛い。これを見る度に、神尾さんの顔と、自分の失敗を思い返してしまうから。

「一応、持っていってみよう」

そんなに大きくもないから、ポケットに滑り込ませて持っていくことにする。もしかしたら彼女のご両親に渡せるかもしれないし、そうすれば彼女のものになる。できれば、彼女のものとして処分して欲しい。相手の邪魔になるだけかもしれないという不安もあるし、単なる自己満足に過ぎないものだと分かってはいるけれど、それなら私も納得できるから。

「――っと、もう家を出ないと」

ちょっと考え事に時間をとりすぎてしまった。急いで走っていかなければ間に合わないという時間ではないんだけれど、少し早歩きで行かないと遅れてしまうかもしれない。家の鍵を閉め、小走りに学校へと向かう。

学校までは歩いてだいたい十五分といったところ。時間に遅れはしなかったけど、学校の校門の前に到着すると既に担任と遠野さんが待っていた。担任は黒いスーツを脇に抱えて黒ネクタイを締め、遠野さんは当然のことながら制服に身を包んでいる。二人とも涼しい顔をしているけど、この炎天下では一分待つのも辛かったに違いない。私が来たのを認めると、担任がこちらへと向かって歩いてきた。そのあとに遠野さんも続いて。

「よし、それじゃあ神尾さんの家に行こう」

そう言って、担任は私の横を通りすぎていく。私がその進行方向へと向き直ると、ちょうどその横を遠野さんがすれ違っていった。ついさっき通ってきた道を戻るように、神尾さんの家へと向かって。その二人の影を追うように、私はついていく。

商店街へと向かう道の途中で曲がり、坂道を上っていく。傾斜はきつくないけど、長く続いていく坂道。彼女のいつも通っていた道。私は言葉を発することもなく、俯きながら黙々と坂道を歩きつづける。

「ここだ」

坂を上りきり、少し歩いたところで担任が足を止めた。顔をあげると、そこにはこの町ならどこにでもある普通の平屋があった。だけど普通の家と違うのは、そこが今はお葬式の式場だということ。神尾さんの親戚なんだろうか、何人かの喪服を着た人たちが話しあっているのが見える。だけど彼らは悲しみにくれた顔というより、煩わしい何かに迷惑しているという形容のほうが相応しい表情をしていた。それが妙に私の心に障る。単に葬儀の手配などに忙しくて疲れているだけなのかもしれないけど。

「受付を済ませてくるから、二人はここで待っててくれ」

担任はそう言い置き、門の傍に設けられた弔問の受付場へと足を向ける。手持ち無沙汰に周囲を眺めてみると、お葬式だというのにどこか空々しい雰囲気が漂っていた。あえて言うなら――昨日の私たちのクラスのような。あれほどには露骨ではないにせよ、やっぱり最初に感じた不快感を払拭できない。

どうしてだろう? ただ、私の神経がささくれだっているだけなんだろうか? だけど――。

首を少しだけ動かして、同級生の様子を伺う。相変わらず彼女が何を考えてるのかは分からないけど、その瞳は確かに悲しみの色に染まっていた。周囲の人たちには、それがないんだ。顔はいかにもといった感じなんだけど、目が嘘をついている。だから、空々しく感じられてしまう。

悲しい。それがなんでだか分からない。だから、悲しい。

これはいったい、何のためのお葬式なんだろう。

「――さぁ、中に入ろう」

受付を済ませた担任が戻ってきて、促されるままに私は神尾さんの家の玄関に足を踏み入れる。こんな形で足を踏み入れることになるとは思わなかった、彼女の家。できることなら彼女の友達として、この家に来たかった。でも、もう遅いんだ。後悔したところで、時間を戻せるわけじゃないんだから。

そんなことを思いながら、居間に並べられた弔問客用の座布団に正座し、葬儀の開始を待つ。感傷的な気分になるつもりはないんだけれど、お葬式という雰囲気がどうしてもそうさせてしまう。

周囲の様子を視線だけ這わせて伺うと、とくに親戚やそれ以外の人といったような分け方はしていないらしく、皆それぞれが適当に空いている座布団を見つけて座っていっているようだった。個人規模の葬式だし、親戚や隣近所の人たちくらいしか参列しないだろうというのもあるんだろうけど。

その中で仏壇のすぐ隣、体を横に向けて座っている女性が視界に入った。頭を垂れて、その長い髪が表情を隠していてよく分からないけど、おそらく彼女が神尾さんのお母さんなんだろう。座っている位置などから考えても、そうとしか思えない。隣の空いている座布団は、神尾さんのお父さんの席だろうか。神尾さんには兄弟姉妹がいないようだったから、家族の座布団が二つだと考えると簡単に納得できる。

だけどそれにしては、神尾さんのお母さんは若く見える。神尾さんの死によほど参ってるんだろう、ずっと俯いたまま身じろぎもしないのではっきりとしたことは言えないけど、少なくとも高校生の子供を持つような年齢じゃない気がする。遠めに見ても、そう思うくらいだった。

それとなく神尾さんのお母さんの様子を窺っていると、彼女の肩がわずかに動いて――すぐ傍の襖が開き、黒いスーツに黒ネクタイの喪服に身を包んだ男性が入ってきた。やっぱり、若く見える。私は直感的にあの人が神尾さんのお父さんだと思った。

その人の後に続いて、六十歳くらいのお坊さんも部屋に入ってくる。彼はお坊さんを仏壇の前へと通すとこちらに向かって一礼し、懐から一枚の紙片を取り出した。胸元につけているらしい小型マイクのスイッチが入り、どこかに設置されたスピーカーからその声が聞こえてくる。

「本日は皆さん、ご多忙の中、娘の観鈴の葬儀にご参列いただき、心から感謝いたします。葬儀の進行は私、喪主の橘敬介が務めさせていただき――」

――橘? 神尾じゃないってことは、神尾さんのお父さんじゃないんだろうか。いや、確かに娘って言っていたからあの人がお父さんなんだとは思うけど、もしかしたら色々と複雑な事情があるのかもしれない。最近よく言われている夫婦別姓とかだろうか。

再び隣に正座している同級生の顔色を盗み見ても、彼女は微動だにともしていなかった。よく分からないけど、どうやら神尾さんの両親が別姓だったということに対しては特になんとも思っていないらしい。彼女は、このことを予め知っていたんだろうか。

私たちの後ろに座っている担任の様子を、振り返って窺うわけにもいかない。これ以上推測できることもないし、そこまでして詮索する必要もない。何か釈然としない感じはしたけど、私はそのまま葬儀の進行を見守るしかなかった。部屋中に響き渡る、お坊さんの唱えるお経が、私の思考を塗りつぶしていく。

「――親族の方々から、ご焼香をどうぞ」

しばらくして、静かにお坊さんがそう告げた。目を伏せて正座していた神尾さんのお父さんが立ち上がり、淡々と焼香をあげる。その次に神尾さんのお母さん――と思ったけど、彼女はうなだれたまま立ち上がろうとしなかった。神尾さんのお父さんが何か小声で話しかけているみたいだけど、彼女はぴくりとも動こうとしない。やがて彼は諦めたように頭を振り、次に焼香をあげる人へと順を促したようだった。

次々に葬儀の参列者が焼香を済ませていく中で、私はずっと神尾さんのお母さんの様子ばかりが気になっていた。神尾さんのお母さんを見ていると、なんだか自分自身の姿を見ているようで落ち着かないから。神尾さんの訃報の電話を受け取ったあの日の自分と彼女のうなだれた姿が重なって見えてしまう。

でも今はもう、立ち上がれるはず。たったの二日間だけど、私はあの悪い夢から――少しは覚めたんだと思う。もう過去の弱い私とは、その間に決別してきたはずなんだ。

……けど、本当にそうなんだろうか――。

「――川口さん」
「え……」

思考の世界から現実へと引き戻される。顔を上げて声のしたほうに視線をやると、遠野さんが立っていた。

「あ……」

彼女が立っているのは、焼香を上げて戻ってきたところだったからのようだ。順番は、彼女の次が私になる。考えにふけっていて、順番が回ってきていることに全く気づいていなかった。慌てて立ち上がり、紅潮しているであろう顔を少しでも隠そうと、俯き加減に前へ進み出る。

「…………」

すぐそこでお坊さんが読経を続けている。皆の視線が、私に向いてるのが肌で分かる。そんなものはどうということでもないと頭では分かっていても、身体の動きはぎこちなかった。けど、言うことを聞いてくれない身体を精一杯動かし、なんとか焼香を済ませる。

立ち上がり際に、神尾さんのお母さんの顔が見えた。意図して見ようとしたわけじゃない――といったら嘘になる。ちょっとだけ、ほとんど盗み見るような感じで見た印象は、やっぱり高校生の娘がいるとは思えないほど若いお母さんだった。逆に意外だったのは、彼女は泣き腫らした顔というわけではなく、ただどこまでも無表情という感じで俯いていたこと。まるで、遠野さんみたいな――。

いや、同級生を引き合いに出してそう言うのは失礼だと思い直し、二人に心の中で謝る。それを言ったら、私も大して変わらないはずだから。必死に感情を押し隠して、私以外の人に見せるのは、感情の起伏が少ない顔。作り物の表情。仮面を被った、偽りの私。

だから、神尾さんの遺影を見ても涙は見せない。落ち着いたまま、そそくさと席に戻るだけ。それがいつもの私だから。

そしてそのまま何事もなく、葬儀は終わった。

「今日はこれで解散にしよう。二人とも、お疲れ様」

時刻は午後三時を少し回ったところ。葬儀も終わり、参列していた弔問客が帰り始めている脇で、担任が解散を告げる。私と遠野さんが頷くと、担任は踵を返して弔問客の帰途に混じって帰っていった。

実際、もう用事は済んだんだ――。神尾さんの家の前の道で、帰っていく人たちの流れを他人事のように見ながら、佇む。葬儀に参列するのが目的だったんだから、それが終わったら帰るというのは当然のことだ。だけど、私はなんとなくまだ帰りたくなかった。誰もいない、自分の家に。

しばらくそのまま佇み、はたと気づく。

「遠野さんは、家に帰らないんですか?」

何故か一緒に佇んでいる同級生に声をかける。特に神尾さんの家へと用があるわけではなさそうなんだけれど、私と同じように道の脇で人の流れを眺めていた。

こちらの問いかけに遠野さんは静かに頷いただけで、またそのぼんやりとした瞳に帰っていく人たちの姿を映す。相変わらずの卓越したポーカーフェイスで、何を考えているのかさっぱり分からない。まぁ彼女にも彼女なりの考えがあってそうしているんだろうと、勝手に納得することにした。もしかしたら、それが彼女と付き合っていく一番いい方法なのかもしれない。

傍から見れば不思議か、あるいは滑稽な光景だろうか。葬儀を行っている家の前で高校生が二人、互いに喋るというわけでもなく、ただ佇んでいるだけというのは。

時間だけが、過ぎてゆく。

「はぁ……」

そういえば、結局お土産の髪飾りも渡せずじまいになっちゃったな――。ポケットの外から触れてその膨らんだ感触を確かめ、溜息をつく。今からでも渡せないことはないかもしれないけど、あの神尾さんのお母さんの様子を思い返すと、とてもじゃないけど渡すことなんか出来ない。彼女にとっても、そんなものを貰ってもただ辛いだけだろう。本来、私が処分するべきものだったんだから。

そう考えると、突然この場所に佇んでいる意味がなくなってしまった気がした――なんだ、私は結局誰かに自分の荷物を肩代わりして欲しかっただけなんじゃないか。これさえ渡してしまえば終わるって、心のどこかで勝手に思っていたんじゃないか。卑怯で臆病者の私らしい逃げ方だ。

虚しくて、悲しい。もうここに居ても意味がないということに、気づいてしまったことが。空白の思考で、どこへともなく歩き出そうとすると――。

「――だけど、晴子さんも気の毒よねぇ。あんなに落胆した晴子さんは初めて見たわ。観鈴ちゃんもいい子だったのに……」
「そうよねぇ。姪とはいっても晴子さん、しっかり面倒見られてたし――」

神尾さんの向かいの家の前にいる人たちの話が耳に入り、はっと顔を上げる。喪服に身を包んだ四十歳をちょっと過ぎたくらいのおばさんたちが三人、口々に哀悼の言葉を交わしていた。多分、今日のお葬式に参列した神尾さんの近所の人たちなんだろう。だけど、それよりも私はその話の内容に耳を疑っていた。

神尾さんが――姪? まさか……。

「あ、あのっ!」

直感的に思いついた考えが恐ろしくて、それでも確かめずにはいられなくて。ほとんど無意識のうちにその人たちに声をかけていた。私の声に彼女たちは振り向き、突然話に割って入ってきた私を怪訝そうな目つきで眺める。

「あら、貴女、観鈴ちゃんのお友達?」

私の着ている制服を見てそう判断したんだろう、話の輪の真ん中にいた人が私にそう尋ねる。

「えぇと、私は神尾さんの…………クラスメイトの、川口茂美といいます」

咄嗟に、俯き加減に答える。やっぱり、友達とはいえない。

「あぁ……一年ほど前に引っ越されてきた、川口さんのところの娘さん?」
「確か高校生の娘さんがいるって言ってらしたし、そうじゃないかしら」

私がこくんと頷くと、彼女たちの顔も納得がいったように表情が和らぐ。こういう隣近所と親しい昔ながらの町では、余所者には警戒心が強いけど、知り合いには都会の人よりも打ち解けて話してくれる。一年間で、私の家族もこの町に馴染めたということだろうか。

けど、そんなことよりも。

「あの、さっきの話は本当なんでしょうか?」
「さっきの話?」
「神尾さんが……その、姪だという話です」

そう言うと、彼女たちは困ったように顔を見合わせた。少し渋い顔をしていたけど、私が本気で聞きたいと思っているということを察してくれたのか、真ん中の人が声を潜めてそっと話し出す。

「晴子――神尾晴子さんはね、本当は観鈴ちゃんの叔母にあたる人なのよ。実の母親ではないの」

疑念が、確信に変わる。自分の表情が強張るのが分かった。

「晴子さんにはお姉さんが一人いて、郁子さんっていうんだけど、若いときに駆け落ち同然で家を出ていったらしいの。ほら、葬儀の喪主だったあの橘敬介っていう人と。それが原因になったのかもしれないけど、その後すぐ御両親が二人とも病気で急逝なされて、晴子さんは大学へ行かずに就職したのよ。観鈴ちゃんは、その家出した二人の間に出来た子供なの。だから、郁子さんが観鈴ちゃんの実の母親ってことね」
「それで、どうして晴子さんが……?」

声が震え、私の明確になっていない言葉の意味を汲み取り、右の人がさらに声を落として囁く。

「……大きな声では言えないけど、当時は郁子さんが駆け落ちしたのも既に観鈴ちゃんを身ごもっていたからじゃないかって言われてたわ。二人ともまだ二十歳にもなっていなかったようだから単に子供一人を養っていくだけの経済力がなかったかもしれないけど、それより――」
「それより……?」

言いよどんだ言葉を、思わずオウム返しに聞き返す。彼女はゆっくりと首を横に振って。

「郁子さんはもういないのよ……。観鈴ちゃんが物心づく前に、病気で亡くなられたらしいわ――」

――そんな。

「それで、晴子さんが観鈴ちゃんを預かることになったらしいの。郁子さんが亡くなる前後だったらしいわ……。だいたい十一、二年くらい前の話かしら」
「そのくらいは経つわねぇ。でも、その橘っていう人も無責任じゃないかしら。いくら面倒を見きれないから自分の娘を義妹に預けるっていっても、その後に様子を見に来ているとか言う話は全く聞かなかったわ」
「晴子さんも仕事が仕事だからねぇ……。生活のリズムが観鈴ちゃんと全く違うでしょうから、観鈴ちゃんの面倒を見ることさえ難しかったでしょうし。理由はあったんでしょうけど、ちょっと酷いわよねぇ」

――私は……。

「ちょっと前から観鈴ちゃんの具合が悪くなっていったのは、車椅子に乗っているのを見かけたりしていたから知っていたんですけど、晴子さんも一生懸命看病されていたし、観鈴ちゃんが楽しそうだったから安心していたのに……。まさかこんなことになるなんてねぇ……」
「ほんとよねぇ。あんな若いうちから亡くなるなんて……」
「辛いでしょうねぇ、晴子さんも……。あの橘っていう人も、ちょっと――」

三人の話の一言一言が、私の心の奥底に響いてくる。耳を塞ぎたくても、塞げない。

――嫌だ。

「……ありがとうございました」
「あ、貴女――」

一礼して踵を返す。後ろからかかる制止の声を振り切って、私はそこから逃げ出した。

――波の音が聞こえる。同じリズムで、淡々と寄せては返す波。風も、鳥の声も聞こえない。ただ、潮騒だけがいつものように響いている。

あの日から、この堤防には登っていなかった。そんな必要はなかったから。思い出すのが辛かったから。けど――。

「…………」

惨めだな、と思った。膝を抱えて座る自分が、見えるはずなんかないのに、小さく縮こまって見える。今私自身が感じている私の姿が、そんなものだということ。自分自身が他人に見えてしまうくらい、私は私に呆れてしまっているんだろうか。それさえも分からない。

――何もかも、私が思い違いをしていたのがいけなかったんだ。

私は神尾さんに嫉妬していた。周囲から愛され、身を案じてもらうことが出来る神尾さんと、どんなに孤独を感じても常に一人で居なければならない自分。私は、彼女と私を比較してそういうものなんだと思っていた。

だけど、事実は違っていた。

神尾さんは、始めからいつも一人だったんだ。実の母親を亡くし、叔母のところへ預けられ、父親とも会えない。さらに彼女の、友達が出来なくなってしまうあの忌まわしい発作。私が勝手に考えていた彼女の幸せな家庭像は、実際にはその欠片も見つからなかった。

それに引き替え、私はどうだろう。身体は五体満足だし、会おうと思えばいつだって親には会える。クラスメイトから除け者にはされたりしない。彼女と比較すれば、私のほうがまだ遙かにマシだったんだ。それなのに私は彼女に勘違いで嫉妬して、辛辣な態度をとってしまっていた。

どうしようもない馬鹿だ。私は。自分勝手な思い込みで彼女から離れ、彼女を傷つけることになってしまったというのに。彼女はそれでも笑っていた。誰よりも辛い立場にいたはずなのに、彼女は泣かなかった。別にそれは彼女が望んでそうしていたわけでもなく、ただ彼女はそういう立場に立たなければならなかったという不可抗力的なものだったんだ。それを彼女は受け入れて、その上で努力していた。

そんな彼女を助けられたかもしれない繋がりを、私は絶ってしまっていたんだ。霧島先生の言葉を、今になって鮮明に思い出す。彼女はいつも独り――それは間違いなく、彼女の生きてきた歩みそのものを指していたんだ。

「…………っ」

視界が滲む。葬儀の時でさえ出てこなかった涙が、今になって溢れ出て来る。神尾さんに謝りたい涙。私自身を嘲笑いたい涙。色んな感情が混ざって、溶けて、溢れ出ていく。嗚咽はかみ殺せても、流れ落ちる涙は止められなかった。

なんで今になって分かったんだろう。なんで全てが終わってから知ってしまったんだろう。分かりたくなかった訳じゃないし、知りたくなかったわけじゃない。ただ、もうちょっと早く――やり直せないところに来るまでに、どうして気づけなかったのか。

いや――本当は薄々気がついていた。漠然とした不安のようなものを感じていたんだから。けど、私は何もしなかった。する勇気を持っていなかった。そう言って、逃げていたから。誰かが教えてくれなかったせいだっていうのは、自分の責任だって認めたくない子供の言い訳にしかならないんだ。そして、私は子供だった――。

「……川口さん」

不意に、私を呼ぶ声が聞こえる。慌てて手の甲で涙を拭ってその声の方に顔を向けると、遠野さんが私の横に佇んでいた。

どうして。なんで彼女がここにいるんだろう。

「…………」

彼女の瞳が、何かを訴えかけるように私を映し出す。はっとして私は彼女から視線を逸らし、膝に顔を埋める。彼女に泣いていたことを気取られたくなかったから。遠野さんには、すぐにバレてしまっているかも知れないけれど。

彼女は何も言わずに、私の隣に腰をかける。あの日と同じ、二人並んで眺める海。

「……何か、私に用でもあるんですか」

会話のきっかけとして出た言葉は、まるで自分の言葉じゃないみたいに冷たい響きだった。突き放すような語調。それでも遠野さんの声音は変わらなかった。

「川口さんのことが、気がかりで……」

あくまで淡々と、遠野さんはそう言った。そう言ってくれるのは嬉しい。だけど、それを手放しに喜ぶ気にはなれなかった。彼女が、どうして私を心配するんだろうか。その理由が分からない。ほとんど言葉を交わしたこともない彼女が、何故。

「神尾さんの家の前で、ずっと一緒にいたのも……?」
「……」

彼女は声に出しては答えなかったけど、その沈黙が私の言葉を肯定しているということは確かだった。だけど、それは余計に分からなくなる。私はそんなに心配されるような素振りをしていたんだろうか。確かに神尾さんの話を聞いた後のことはあまりに唐突だったと思うけど、葬儀の時などはそうでもなかったと思う。第一、一目見てそんなに体調が悪そうだとか思われたら、その時点で何か言われるだろうし。

彼女がどうして私を気にかけてくれるのか――興味はあったけど、それもすぐに失せた。私が聞くのもなんだか自意識過剰みたいだし、単に彼女の気まぐれだとしたらそれこそ意味がない。

けど、聞きたいことは他にあった。

「遠野さんは神尾さんのことを、知っていたんですか……?」

それがどういう意味なのか、あの場にいた遠野さんなら分かるはず。私はそれが知りたかった。私だけが知らずに――苦悩していたのか。

遠野さんは視線を少しだけ落とし、何かを考えているようだった。その間、お互いに視線を交わすこともなく、奇妙な沈黙だけが続いていく。先ほどと場所が変わっても、滑稽なくらいに状況は一緒だった。居心地の悪さは、さっきよりもずっと強いけど。

「……知ってはいました。彼女が独りだったということは……」

少し経って彼女から出てきた言葉――その感情の起伏の少ない鷹揚な喋り方が、妙に私を苛立たせる。

「クラスの人たちは、知っていたんでしょうか?」
「……この町に住んでいる方なら、あるいは知っていたかもしれません……」

それならば、なぜ――。

「なぜ、神尾さんを助けようとしなかったんですか。そこまで分かっていたのに……」
「……」

遠野さんは答えない。私の握った拳に、次第に力がこもる。私の心に、どす黒い何かが満ちていく――。

「――どうしてなんですかっ!? この町の人たちは、そんなに冷たい人たちばかり何ですかっ!?」
「……それは、違います」
「じゃあ、なんでっ!? なんで苦しんでいる人を放っておくことが出来るんですか!? 神尾さんが独りだってことを知っていたなら、なんで手をさしのべてあげることをしなかったんですか!? それって、そんなのって――」
「……」

立ち上がって、激情のままに声を張り上げる。遠野さんは少し顔を伏せたまま、身じろぎもせずにいた。私には分からない。どうしてそこまで冷静でいられるのか。彼女は本当に、何も感じていないのか。

「――見殺しにしたのも、同然じゃないですか……」

言い終えて、その場から駆け出す。遠野さんのことなんか関係ない。もう嫌だ。何もかもが嫌だ。この世界を生きていくのが辛い。私が私であることが辛い。何もかも、消えて無くなってしまえばいい――。

日が傾き始め、空は次第に茜色に染まっていく時間帯。家に戻ると、ちょうど仕事帰りに買い物に寄って帰ってきたところらしいお母さんと玄関のところで鉢合わせになった。買い物袋を抱えて、ドアの取っ手に手をかけたところで、私に気づく。

「あら、茂美。おかえりなさい」
「ただいま」
「あ、そうそう。河原崎さんのところの奥さんが、なんだか茂美のことを心配してらしたわよ。何かあったの?」

一瞬誰のことだろうと思ったけど、昼間に神尾さんのことを教えてくれた人たちを思い出す。名前は知らなかったけど、多分、その人たちのことで間違いない。

「……なんでもないよ」

靴を脱いで、階段を上っていく。下からお母さんの呼ぶ声が聞こえたような気がするけど、無視して自分の部屋に入った。そして着替えもせず、そのままベッドに倒れ込む。もういい。もう、いいんだ。精一杯生きていくことに、もう疲れた。

あれだけ他人に感情をむき出しにしたのは、いつ以来のことだっただろう。私はあのとき、なりふり構わずに泣いて、叫んでいた。決して誰にも見せなかった涙。物心着いたときには、私は人前で泣かなくなっていた。夜の孤独に泣いた記憶は山ほどあったのに。もう身体に染みついてとれなくなってしまった、優等生の仮面。

結局私は、ただ遠野さんを傷つけるだけになってしまった。私が責めたあの言葉は、言い出した自分が最もよく当てはまるから。叫んでいる最中にもそれは気づいていた。だけど声は止まらなかった。衝動のままに、心の奥底にたまっていた醜い感情の嵐を遠野さんに向けてしまった。

彼女が何も言わなかったのも、彼女がそれを否定するのに十分なものがないということを、彼女自身がよく分かっていたからだと思う。私たちのクラスは、神尾さんに対して何もしていなかった。むしろ、ただ差別していただけだった。そしてそれを知りながら黙認していたことは、誰しもが同じ。みんながみんな、平等に共犯だということ。

私はそれにつけ込んで、自分のことを棚上げしておきながら遠野さんを責めた。単なる八つ当たりだ。そう、一番醜いのは、私自身に他ならない。

何を考えても自己嫌悪の念が募っていく。私の歩いてきた足跡の中に、信じられるものが何一つとしてない。あるのはただ後悔と偽りばかり。そして今日もまた一つ、後悔を重ねてしまった。

生きている意味が分からない。私が存在するという意味が分からない。何のために生きているのか。どうして生きてしまっているのか……。

私が自室に閉じこもるようになったのはそれからだった。夏期講習も行かなくなり、親には気分が悪いと言って、一日中ベッドの上で寝て過ごすだけの生活になった。そもそも、それは生活といえるのかどうか分からないけど。ただ生きているだけ、といったほうが近いと思う。生きていくのが、もう辛いから。その辛さがどのくらい続くのかさえ分からないから。私は、私に愛想を尽かしてしまったんだ。

そして、夏が終わった。

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