Phantasy Garden

夏の昼下がり。昼時とは言えないが、まだまだ陽も高くて夕暮れまでは程遠い、そんな時間。

私はある人のお墓参りに来ていた。お盆も過ぎて、周りには誰もお墓参りに来ている人なんかいないけど。むしろ、そのほうが都合がよかったと思っている。血の繋がった身内ではなかったし、何よりおおっぴらにこの人のお墓参りになんか来れない。

その理由もあってないようなもの。ただ単に、こうやってお墓参りに来ているということを誰かに知られたくなかっただけだ。気恥ずかしいからというのもあるけど、これは自分自身への戒めとかそういったような、何か。言葉ではどうにもうまく表せない。もっと簡単に言ってしまえば、私が一人でお墓参りをしたい。それだけだ。

拘る理由なんかない。だけど――。

頭を振って陰鬱な気分を払拭する。お墓参りだからといって、陰鬱になる必要は無いだろうし。それに、そんなことは『あの人』は絶対望まないと思う。いつだって、自分のことより相手のことばっかり考えてる人だったから。私が暗い顔をしていたら、『あの人』も一緒になって落ち込むだろうな。

水を満たした手桶を置いて、お墓を見やる。供えられた花はまだ新しい。月に一度ここに来ているけど、花が枯れていたことは一度も無かった。それだけ『あの人』は愛されていたんだ。

その花を手に取り、器に入っていた水を捨てて桶から新しい水を入れる。そして私の持ってきた花束を加えて元の位置に戻す。後は桶の水で周りを掃除して、最後に線香を供えるというのが毎回のこと。私ができることは、それくらいだから。

掃除をしていると、残暑の厳しさに汗が吹き出てくる。火照った頬を、時折撫でてくれる微風が気持ちよかった。

ちょっと簡単過ぎる気もするけどお墓の掃除を終えて、線香に火をつける。ゆらゆらと立ち上る細い煙が、真っ青に透き通った空へと吸い込まれていく。

線香をお墓の前において、手を合わせて目を閉じる。瞼の裏に映るのは、想い出の中の『あの人』。

ちくりと針を刺されたように、心が痛む。それさえも、いつものこと。こうすることしかできない歯がゆさ。

だけど、分かっている。心が痛む以上に、私は自分のできることを精一杯しようと。そして、そうしなければならない理由がある。

お墓に刻まれたその名前を想いながら。それが私のできる、『あの人』への償いだから。

私の名前は、川口茂美。

家族はお父さんとお母さんの二人だけで、私は一人っ子。今では特に珍しくもない、子供が一人だけの核家族というやつだ。この海の傍の町は生まれた時から住んでいたわけではなく、中学校が終わると同時に引っ越してきた。お父さんは仕事柄転勤が多かったので、小学校も中学校も転々としていた。

引越しする前は、第一志望にしていた公立高校の受験を高熱を出して欠席してしまい、滑り止めの私立高校に行くか浪人するかで少し迷っていた。その時に折良く転勤で再び引っ越す事になり、転居先の公立高校の編入試験を受けることにしたんだ。やっぱり浪人はしたくなかったし、私立に行ってあまりお金の負担をかけたくもなかったから。

この高校の難易度は滑り止めの高校より少し水準が低かったので、編入試験自体は楽だった。お父さんは、わざわざ高校の水準を下げてまで一緒に来る必要は無い、単身赴任でもいいからお母さんと一緒に残っていろと言っていたけど、私はこの町に来たいと強く主張した。

元来の引っ込み思案な性格のせいか、引越しを繰り返してなかなか長く付き合えないせいか、友達付き合いもそれとなく希薄な関係で済ませてしまっていて、私は親身になって話し合える友達というものがなかったんだ。お父さんは私にたくさん勉強させて大学に行かせたいみたいだけど、それより私は友達が欲しかった。だから、滑り止めとはいえ私の頭ではちょっと追いついていくのが大変そうな私立高校よりはいいかなと思ったのも事実。それに、私はこの町の雰囲気をどことなく気に入っていたから。

入学当初は、さすがに馴染めなかった。この町のような小さな地域だと、小学校、中学校、高校とほとんど繰り上がるような形で進学していくみたいだった。そのせいか高校一年生という新しい区切りでも、だいたいの子は顔見知りといった感じみたい。不思議なことに、隣町のほうが町の規模が大きいのに高校は合わせてここの高校一つしかないらしく、よっぽどの事情がない限りはこの高校に進学するのが普通らしい。まぁ規模が大きいといってもやっぱりそれなりにしかないし、一学年に4クラスしかできない人数だから当然といえば当然なのかもしれないけど。だから、そのどちらの町の出身でもない私は、簡単には友達ができなかった。皆、だいたい中学校からの友達と一緒にいて、なんとなく声をかけにくかったんだ。入学式の日のホームルームで一人一人自己紹介をしたときも、出身中学校のことで嫌に目立ったような気がして気恥ずかしかった。

クラスに馴染み始めたのは、中間テストも近いゴールデンウィーク明けの頃。授業の小テストとか課題とかをこなしているうち、クラスメイトからみた私の印象は『勉強のできる編入生』ということになっていたらしい。中間テストに向けて、クラスメイトから授業のことで教えを乞われたり、宿題を見せたりしていた。

元々中学校の頃から、勉強は得意ではなかったけど嫌いでもなかったので成績は中の上といったところだったし、それなりに真面目に授業を受けていたので先生からの評判も悪くはなかったと思う。皆から見れば、いわゆる優等生に見えたのかもしれない。けど、そう振る舞うことで仲良くなるきっかけを見つけた私は、自分なりに一生懸命『優等生』としていることにした。中間テストも、期末テストも、私は優等生という立場で存在していた。その時は、私は私がそうあるべきと望んでいるものだと思いこんでいた。

それを覆されたのは、夏休みが終わって二学期が始まったときだった。この高校では九月の終わりくらいに学園祭を行う予定になっていた。気の早い人たちは夏休みが終わりに近づいた頃から何かと準備し始めているらしい。そういえば、夏休みに入る少し前にも学園祭実行委員会なるもの――委員会というより有志の集まり――が委員の募集を行っていたような気がする。皆、学園祭を盛り上げようと頑張っていた。数少ない年間行事の中でも最も盛りあがれる行事なんだから、皆が頑張るのもわかる。だから私も、精一杯頑張る。いや、頑張ろうとしていた。

うちのクラスでは、学園祭はクラス全員で出し物をすることになっていた。色々と案が出た中で、体育館のステージを使って演劇をするという案が多数決で決定した。実はクラスメイトにそういった脚本家や演出家を目指している子がいて、結構本格的にやれそうな雰囲気だった。夏休みの間に大まかなストーリーを既に書いており、学園祭用に少し手直しするだけとの事。それならすぐに作業に取り掛かれるだろうと満場一致でオリジナルの演劇をすることが決まった。高校生にしてはかなり難易度の高いものだったけど、演劇部の子たちも乗り気で手伝ってくれることになり、衣装や大道具などを借りる事ができた。私と数人のクラスの女の子は、それらの衣装にあわせて小道具を作ったり、物語で足りないものを作る仕事になったんだ。

夏休みが終わってから学園祭が始まるまで三週間ちょっとしかなく、夏休み明けの実力テストが終わってからすぐに連日夜遅くまで小道具作りをしていた。けど、そんなに体の強くなかった私は、小道具作りを始めてから一週間ほど経った時に肺炎で倒れてしまった。極度の疲労で体が弱っていたところをやられてしまったみたい。命に関わるほどではなかったけど、そんなに軽いものでもなかったみたいでそのまま入院することに。小道具係のことが気がかりになっていた私は早めに退院したかったのだけれど、体が言うことを聞いてくれず。結局、退院できたのは十月に入ってからだった。その頃にはもう、学園祭の熱狂も冷えていて、迫る中間テストに皆焦っていた。

一ヶ月分の遅れを取り戻すために、私も必死で勉強していた。友達に授業の事を教えながら、それ以前の授業の復習を繰り返しながら、宿題をこなしながら、しかし私は心のどこかで無性に寂しさを覚えていた。

学園祭の話を聞き、多少の失敗をしつつもクラス一丸となって大方うまくいったこと、皆で大いに盛り上がっていたこと。話をしてくれた友達は悪気はないんだろうけど、私は小さな疎外感を感じていた。私だけ、参加できなかったということ。ほんの僅かな疎外感が、私の心の中に広がっていき、やがてそれは私を苛むようになってきていた。

私は、このクラスで、一体、どういう存在なんだろう。

勉強を教えてと頼んでくる友達に、懇切丁寧に答えるだけ。宿題を見せてと頼んでくる友達に、快くノートを渡すだけ。たった、それだけ。

私は、勉強がなければ全くの無価値な人間ではないだろうか。勉強がなければ誰にも相手にされないのではないだろうか。私は本当に、私が友達と思っている人から必要とされているんだろうか……。

必要のない人間なんかじゃない、と否定しながらも、どこかそれを否定しきれない自分が嫌になっていた。もしかして本当は――という思いが頭をもたげて、勉強に集中することができなくなっていた。二学期の中間テストの成績は危うく追試を受けさせられるところだったというくらい酷かったといえば、どのくらい悪かったのか想像できると思う。一ヶ月分の遅れもあったし気にすることじゃないよ、と友達は励ましてくれたけど、私は怖くなっていた。

思えば、始めから私は勉強のために利用されてきただけなんじゃないだろうか。それを有頂天になって、私はそれが私の望んだ理想の姿だと思いこんでいただけなんじゃないだろうか。友達は、そんな私を利用価値があると思って付き合ってくれているだけなんじゃないだろうか。だけどそんなことを面と向かって聞くこともできないし、私はこの関係を悪化させることのほうがよっぽど怖かったんだ。それこそ、明らかな仲間外れになるんじゃないかって。

だから、利用されているんじゃないかという疑いが晴れなくても、私はただひたすら優等生を演じ続けていた。そうすればするほど、その疑いが晴れなくなっていくということを頭で分かっていたんだけれど。私の望むようなこととは全く反対の方向に進み始めていると思っていても。また表面だけの付き合いしかできない関係で終わってしまう予感がしても。

私にはそれを変える力がなかった。勇気がなかった。ただ、今の関係を壊すことを怖れて、それを変えていくことを拒んだ。そしてその結果、私は私の悩みを誰にも相談できないという苦しみを抱えてしまうことになった。お母さんは家計を支えるために毎日パートで忙しく働いていて迷惑をかけたくなかったし、お父さんは言うまでもない。友達に相談、といってもその友達自身が問題なんだから相談できるわけがない。だから、私はそれを隠して生きるということを選択した。そうせざるを得なかったといっていいかもしれない。

そう自覚したら、それが余計に辛くなっていくんだと気付いたのは、高校一年生が終わってからだった。

冬が過ぎて、春を迎えても私の心は複雑に絡まったまま。むしろどんどん、心がこんがらがっていっているのかもしれなかった。学校が休みになったら誰かと話すこともなくなり、家で本を読むか勉強するくらいしかやることがなかった。誰にも話せない、私自身の悩みを抱えながら。それが、私には、たまらなく辛くなっていた。

複雑な思いは解決できないまま、春休みが終わって始業式を迎える。私は二年生になった。そして、それが出会いの日でもあった――。

退屈な始業式を終え、ホームルームの始まりを待っているときだった。担任の教師はまだ姿を見せず、教室の中は友達同士でお喋りを楽しんでおり、ざわついた賑やかさを見せていた。そんな中、誰とも喋ることなく窓際一番後ろの自分の席に座っていた私の前の席に、女の子が座った。長くて綺麗な髪を、白色のリボンでポニーテールにまとめた女の子。顔は見えなかったけど、後ろから見える彼女の指は儚さを感じさせるほど細く、雪のような白さだった。

そこでふと、疑問を感じる。朝、始業式が始まる前にこの新しい二年生の教室に来たとき、目の前の彼女はいなかったような気がする。それどころか始業式でも見かけていない。席は名前順で並ぶようになっていたし、始業式で整列したときもそうだ。私の前に整列していたのは男の子で、その彼は二つ前の座席に座っている。とすると、彼女は二年生の始めからいきなり遅刻してきたんだろうか。

彼女には申し訳ないが、私は心の中で苦笑いしていた。二年生の一番始めの日から遅刻してくるなんて、ちょっとどうかしてる。学校をサボりがちな人だって、始業式の日くらいは学校に来てるのに。しかも、肩を縮めてなんとなく居心地悪そうに座っているのがまた奇妙だった。本当は始業式に遅刻してこれるほどの度胸があるというわけでもなさそうだ。

私の心の中でいつしか疑問は確信に変わり、そして好奇心が芽生え始めていた。この目の前にいる彼女が一体どういう人なのか。もしかしたら、いい友達になれるかもしれない。私の等身大の姿で、付き合っていける人かもしれない。いつのまにか諦めるようになっていた友達という存在への渇望を、彼女が満たしてくれるかもしれない。好奇心は、既に期待へと変わり始めていた。

私は右手を動かし――その途中で手が止まる。

また自分を隠して付き合っていくことになるんじゃないかという不安。自分の悩みが増幅していってしまうんじゃないかという恐怖。彼女がどういう人なのか分からないからこそ、その不安や恐怖が煽られる。私は、彼女と仲良くなれるんだろうか?

動かした右手を、また机の上に置く。期待されるがままに自分を作っていく自分と、期待してくれる相手と、その関係自体を怖がっている。きゅ、っと右手を握りこみ、葛藤に押し流されそうになる自分を押し留める。

そう、声をかけたその先がどうなるかなんて、声をかけてみないと分からない。私が選んだ未来なんだから、その結果がどうなっていこうと私自身の責任。一年生のときに、私は自分自身に後悔したじゃないの。選ぶに選べず、そのまま何も言わないというその未来を自分で選んで。二年生になったんだから、私は自分自身に区切りをつけるんだ――。

だから、私は思いきって、彼女の右肩を叩いた。

彼女がびくっと体を震わせて、少し俯き加減だった頭を上げる。ちょっと驚かせちゃったんだろうか。きょろきょろと世話しなく辺りを見回す彼女だけど、真後ろのこちらには気付いてくれない。確認の意味で、今度は左肩を叩く。またも体を震わせて、今度は窓の外を見回しはじめる。

…………ちょっと面白いかもしれない。

「こっちこっち」

私はちょっと苦笑いしながら、彼女に声をかけた。このままだと本当に後ろに気付いてくれないかもしれない、と不安ながらもなんだか面白い人だと思った。普通、肩を叩かれて窓の外を見るだろうか。

「え……?」

彼女はどこか戸惑いの色を含んだ、小さな声をあげながらこちらへと振り向く。

少し憂いをたたえた透き通るような瞳。子供のようなあどけなさを残しながらも綺麗に整った顔立ち。指先と同じようにきめこまかく白い肌。同性の私から見ても、一目見て彼女は綺麗だと思った。彼女の容姿に、軽い羨望を覚えるくらいに。

けど当の彼女は一体なんで話し掛けられたのか分からないといった風に、言葉をなくして呆然としている。というより、妙に緊張しているようにも見える。私はちょっと話に付き合ってもらおうと思っているだけだから、そんなに緊張させるような表情ではないと思うんだけど。人見知りする子なんだろうか、と思って相手の緊張をほぐすためにこちらから話を促すことにする。

「ね、先生が来るまで、ちょっと話し相手になってくれないかな?」
「わ、私……?」
「そうそう。私、クラス替えで知っている人がいなくなっちゃって、話し相手がいないのよ」

これは本当のこと。四クラスしかない学年だったけど、同じクラスだった女の子達はほとんど違うクラスになっていた。男の子も含めて考えれば五、六人くらい知っている人がいたけど、顔を知っているだけで話したこともなかったから、そちらに突然話し掛けに行くのはさらに勇気が要る。中途半端に相手の事を知っていると、逆に話し掛けづらくなってしまうんだ。相手が自分の事をどれだけ知っているのか分からないし、相手の事を知っているつもりで自分が話し掛けても相手がわからないかもしれない。それなら互いに全く知らない人のほうが、私は話し掛けやすいと思う。

彼女はどうやら全くの他人と話すことには慣れていないみたいだけど。言葉が詰まって何も出てこないらしく、引きつり笑いのような微妙な表情を浮かべていた。私は彼女の性格を窺いながら、相手が答えやすいように訊いてみる。

「あなたは友達と話したりしないの?」
「……うん。私も、話し相手がいないですから……」
「ふぅ、ん……」

そう話す彼女は笑っていたけど、どこか空々しい笑いだった。悲しみを押し隠して、無理やり浮かべる苦笑い。いつも鏡で見てきた笑い。自分も同じ、その苦笑いをしていたから。彼女と私は、似ているのかもしれないとほんの少しだけ希望が心に灯る。

「なんだか私たち、似ているのかもね」
「にはは、そうですね」

話のきっかけとしてよくある常套句。だけど、私は本心からそう思っていた。彼女の苦笑いではない嬉しそうな微笑に、私もつられて笑みがこぼれる。

「私は川口茂美っていうの。あなたは?」
「えっ……」

こっちの自己紹介をして名前を尋ねると、不思議と彼女の表情が曇った。なんだろう。何か気に障るようなことでも言ってしまったのかと少し思い返す。でも普通に名前を尋ねただけだし、彼女は名前に何かコンプレックスでもあるんだろうか。

「……あ、わ、私は、神尾――神尾観鈴、っていいます」

少し逡巡した後に出てきた名前は、特に変わった名前でもなかった。観鈴という名前も綺麗な響きで、彼女に似合ってると思うし。

「へぇ~、神尾さんっていうんだ」
「う――うんっ」

私がそう言うと彼女は少し呆然として、すぐに元の明るい顔に戻る。一体どうしたんだろう。浮かんできた素朴な疑問を少し訊いてみたい気にもなったが、すぐにその疑問を打ち消した。それは彼女のプライベートに関わるようなことかもしれないし、それにたぶん、その疑問は私と彼女の関係を壊してしまう。そんな直感めいた何かが感じられた。

「……か、川口さんっ」

私が心の中で疑問をかき消している間に、神尾さんが声を絞り出す。まさにその表現が相応しいくらいに、彼女の声はどこか切迫した雰囲気があった。彼女の瞳も、決意の意思を帯びていた。

「――――」
「……どうしたの?」

神尾さんは少し顔を俯かせて、何か――彼女にとって、凄く言いづらい何かを必死で声にしようとしていた。私はそれを急かさないように静かに、彼女が言い出すのを待っていた。

「わ、私と…………友達になって、くれませんかっ」

彼女が目を瞑り、身体を震わせ顔を紅潮させて出した言葉は、普通にはあまりにも普通過ぎる内容だった。だけど私には、それは心の底から助けを求めるような悲痛な叫びにも聞こえた。なぜならそれは、私も強く欲していた言葉。どんなものよりも勇気が必要な言葉。だから、彼女がどれだけの思いをこの言葉に乗せているのか、痛いほど身に染みる。その思いを断る理由なんか、ない。

「――うん、いいよ。よろしくね、神尾さん」
「あ……」

私が差し出した右手を、彼女は信じられないような面持ちで見つめている。その光景は、彼女がどれだけ切望して止まなかったものなんだろう、どれだけ叶わないものと諦めたものなんだろう。私はそれを、夢にまで見るくらい望んだもの、涙が枯れるくらい泣いて諦めたものだった。

こちらの右手を見て、彼女も右手を差し出そうとして、そのまま止まってしまっていた。ふと彼女の顔を見れば、今にも瞳から溢れだしそうなくらいの涙が滲んでいる。私は左手を彼女の右手に添えて、両手で彼女の右手を包み込む。

「ほら、これで私たちは、友達」

私も自分自身の歓喜に涙が滲んできたけど、今まで被り続けてきた優等生の仮面が、なんとかその感情の爆発を押し留める。だけど、彼女の本当に嬉しそうなその表情を見ていると、穏やかで優しい気持ちになれた。私の心も嬉しさでいっぱいになっていた。

神尾さんは溢れてくる感情を隠すように、左手で口元を押さえて顔を伏せる。涙は今にも零れ落ちそうだった。

「う……ん。あ……り……がと……ぅ……」

震える指の間から漏れてきた言葉の最後は、ほとんど声になっていなかった。彼女は感極まって、ついに大粒の涙がボロボロとこぼれ始めだす。嗚咽も静かに、彼女の声はクラスの喧騒にかき消されてほとんど聞こえない。

ホームルームが始まる前のひととき。私は、神尾さんと友達になった。

しばらくすると担任の教師が教室に入ってきて、ホームルームが始まった。神尾さんはまだ泣き腫らした跡が残っていたけど、少し微笑んで前のほうに向き直る。担任が軽く自己紹介をして、当たり前のような『二年生としての気構え』について話し始めた。一年生のときのような生徒同士の自己紹介もさすがにしないし、後は学年通信みたいなそれこそ堅い言葉だけで実質ほとんど意味のない保護者向けのプリントを配布しただけでホームルームが終了する。まぁ、二年生なんだから学校にも慣れているし、そこまでくどく言われても生徒がうんざりするだけなので、このくらいが丁度いいのかもしれない。

ホームルームが終わる間際に、神尾さんが担任から、

「神尾さんは、後で職員室に来るように」

と告げられたことくらいが予想の範疇外といった感じ。神尾さんはそれも予想済みだったのか、教師に小声で返事をする。クラスメイトから一気に注目が集まったことと、どこからか忍び笑いが漏れてきたことに気恥ずかしさを感じたのだろう、しゅんとして俯いてしまった。やっぱり今朝の遅刻のことで呼び出されたんだろう。始業式の日にいきなり遅刻してきたんだから、呼び出されてもおかしくないかも。

そんなことを考えていると、彼女が横目でこちらに視線を送っていることに気付いた。ちょっと怯えたような表情でこちらを見上げるかのように見ている。私に、自分の失敗を見られたくなかったのかもしれない。

私は少し微笑んで、彼女の視線に応えた。彼女も意図を察してくれたのか、ぺろっと舌を出して苦笑いする。たったそれだけのやり取りに、私は凄く温かな幸せを感じていた。

始業式の日の帰り道。私は学校を出たすぐ目の前にある堤防の上に座って、何をするということもなく海を眺めていた。春先の海の風はまだ冷たかったけど、今日の風はどことなく優しい。髪を撫でるように、潮の匂いを含んだ風が私の傍を通り抜けていく。

「……川口さん?」

名前を呼ばれて振り向くと、堤防のすぐ下に神尾さんが立っていた。

「あ、ちょっと待ってて」

立ち上がろうとした私は先んじてそう声をかけられ、また座りなおした。彼女は堤防に登るための階段へと駆けていく。別にそんなに急がなくてもいいのに、と内心で思っていると。

「わっ」

短い彼女の悲鳴。続いて聞こえてくる、べしゃっという音。見事なまでに、彼女はこけていた。堤防周辺はコンクリートで綺麗に整備されており、足を引っ掛けるような突起なんかないんだけど。何もないところでどうやってこけたんだろう。

少し苦笑しながら、私は再び腰を上げて隣に置いていた鞄を持ち、堤防の上から軽く跳ぶ。スカートの裾を鞄で押さえ、彼女にぶつからないように少し距離を開けて着地した。

「あはは、神尾さん、大丈夫?」
「が、がお……」

声をかけると、神尾さんは涙声で奇妙な返事をする。とりあえず上半身を起こした彼女に手を貸して、放り出していた彼女の鞄もついでに拾ってあげる。彼女は苦笑いしながら、服に付いた土埃を払った。

「ありがとう、川口さん」
「そんなに慌てなくても、ゆっくり来ればいいのに……」

お礼をする神尾さんに鞄を渡す。

「それにしても、ここで何をしていたの?」

その鞄を受け取りながら、神尾さんが不思議そうに訊く。

「半分は、海を見ていただけかな」
「半分?」
「そう、半分。あと半分は――神尾さんを待ってた、じゃダメ?」

堤防の階段を駆け上がり終わったところで彼女へと振り返って、私は悪戯っぽい笑みを彼女に向ける。彼女はぽかんと口を開けてこっちを見ていたけど、すぐに笑い返してくれた。

「ううん、全然ダメじゃないよ。私、嬉しい」
「あはは」

彼女も階段を上って私の横に並ぶ。私たちは堤防に腰をかけて、他愛もない話を続けていく。

「ホントは教室で待ってようか、って思ってたんだけど、しばらくしたら見回りしていた先生に追い出されちゃって」
「にはは、だからここに居たんだ」
「この学校って出口が正門しかないからね~。ここで待ってたら下校する人も見やすいでしょ」
「うん、すぐに分かった。あんまりこの堤防の上で待っている人って見ないけどね」
「まぁいちいち上るのは面倒だしね」

二人でくすくす笑いあう。それだけで、私は心が温かくなっているのを感じられた。

今まで友達と下校したことは何度もあったし、それこそ数え切れないくらいなんだけど、私は常に輪の外にいた。ただ単に同じ時間帯に同じ場所を歩いているというだけの事実。今思い返しても、楽しく喋りながら帰ったという記憶はあんまりない。それはたまたま同じ方向に住んでいる友達が居なかったということもあったけど、私自身もどこか身を引いていたような感じがする。校門までしか一緒に帰れない、というだけで杓子定規みたいにそう考えていた。別に、少しくらい寄り道したところで誰も怒ったりはしないのに。小学校も、中学校も、そんな感じで過ごしてきた。

だから、堤防で待っていたのだって期待半分なところがあった。神尾さんが気付かない可能性もあったし、気付いても声をかけてくれるかどうかなんて全くの相手次第。時間が来たら、適当に帰るつもりだった。神尾さんと待ち合わせをしていたわけでもなかったから、そうしたところで何の不都合もなかったはず。

だけど私は待ってみたかった。そうすることで、私は彼女との距離を測りたかったのかもしれない。気付いてくれなかったらそれまで、と勝手に諦めていたかもしれない。傍から見れば、それは卑怯なやり口だったと思う。でも私は、それくらい怯えていた。この卑怯なやり口に頼ってしまうくらいに。

しかし彼女は声をかけてくれた。意識してか知らずか、声にも緊張の色はなくなって距離を置いた丁寧語ではなくなっていた。それは、彼女と私が対等に向き合える関係になったということではないだろうか。

だからこそ、私は、それが凄く嬉しかった。それさえも声にして伝えることができない私は、心のうちで彼女に感謝するしかできなかったけど。

少し顔を横に向ければ、彼女の横顔が目に映る。

「? どうしたの?」

こちらの視線に気付き、彼女が尋ねてくる。

「ん、なんでもないよ」

軽く首を振って、その場を誤魔化す。幸い、彼女はその意図には気付かなかったみたいだった。少し疑問という表情を浮かべはしたものの、それ以上の追及もしようとしなかった。心の中でまた一つ、彼女に感謝する。

その後はとりとめもない話が続いた。二年生になってからの勉強のことや、学校の行事のことなど。今はまだ分からない明日に思いを馳せて、それらについて神尾さんと一言一言言葉を交わすたび、私の胸の内にあるささやかな期待が実感として感じるようになっていく。誰かと一緒に明日を過ごしていくということが、私の心の中にある大きな穴を充実感で埋めていってくれるんだ。

「こういう日がずっと続いていったら、いいのにね」
「にはは、そうだね」

二人、笑い出す。穏やかな時間が流れていく。

私たちが話し始めてから1時間くらい経った頃だろうか。中天にあった陽はまだだいぶ高かったが、それでも一瞥してその違いが分かるくらいには移動していた。そういえば、今日はまだお昼御飯を食べていないなと思いつつ、私は手を上に向けて伸びをしながら神尾さんに話し掛ける。

「お昼も結構過ぎちゃったね。神尾さんは、お昼御飯を食べに帰らなくても平気なの?」

私は家に帰ってもどうせ一人だし、自分で作るか買って帰るかしないと御飯はなかった。けど、神尾さんの家もそうとは限らない。もしかしたら家で親御さんが昼御飯を用意して待っているのかもしれない、と思ったのだが。

神尾さんの返事がないことに気づき、顔を横に向けて彼女を見る。俯き加減な彼女の顔はちょうど前髪に隠れてしまっていてよく見えなかったが、凍えるように腕を組んで肩を震わせていることから、彼女の様子がおかしいと分かった。

「どうしたの、神尾さん。寒いの?」

確かに、まだまだ四月の始めで海から吹く風は冷たい。私は別段どうということもなかったが、彼女にとってはきつかったのかもしれない。が、その問いかけすらも上の空の様子で、まるでこちらに気づいていないようだった。

「神尾さん? 大丈夫?」

それは明らかに苦痛を堪えているようだった。組まれた腕は指先に思い切り力を入れていて、内出血を起こし始めているかもしれない。もしかしたら彼女は身体のどこかに病を抱えているんじゃないかと思い、私は彼女に呼びかけた。

「神尾さん、どこか痛いの?」

しかし、その呼びかけにも彼女は応えなかった。ただ俯いて、ひたすら何かを堪えていた。

「…………め…………頑張ら……い……と」

彼女がうわ言のように何かを呟く。だけどその声はあまりにも小さすぎて、潮風の音にかき消されてしまい、私の耳にはほとんど聞こえなかった。彼女の顔を覗き見ると、その眼からぽろぽろと大粒の涙が零れ始めていた。

「神尾さん、歩ける? 具合が悪いなら、学校の保健室に行こう」

私だけではもうどうしようもないと判断して、彼女を促す。とりあえずこの堤防の上から動かなければならないので、彼女を立たせようと肩に手を触れ――。

「っ…………!?」

衝撃とともに手首に激しい痛みが走る。思わず顔を顰めて手を引っ込めると、先ほどまで組んでいた手を脱力させて泣いている神尾さんがいた。しかし、動転した私には何が何だかさっぱりわからなかった。手首が痛いのは、彼女の手で払われたから? それは何故? 何故、彼女は泣いているんだろうか? 分からない。状況が理解できない。そもそも、脳が理解を拒んでいるのかもしれない。

私と、彼女と、その関係を壊した何かを。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

堰を切ったように、彼女の泣き声が響き渡った。泣き声というにはあまりにも悲痛すぎる声。子供が迷子になって母親を求める時のように泣き叫ぶ声。

「神尾さんっ!」

その泣き声に我に返る。今は彼女を落ち着かせなければならない。反射的に彼女のほうへと足を踏み出し――。

「――あ?」

その瞬間は、周りの雑音が全て聞こえなくなり、自分の間の抜けた声だけが耳の中に響いていた。彼女のほうへと動き出した身体は、妙な浮遊感を覚えて沈んでいく。目の前の景色は瞬く間に青空に変わり、まるで飛んでいるかのようだった。その中で、一瞬だけ神尾さんの呆然とした表情だけがはっきりと見えた。泣き腫らして少し赤くなった瞳、戸惑うような表情。子供のように泣きじゃくった神尾さんが。

私は今いったいどんな顔をしているんだろう。神尾さんと同じように、呆けた表情をしているんだろうか。神尾さんと同じように、泣いているんだろうか。少しでもそれが知りたい。何故だかそういう気分になっていた。蒼い、透き通るような空と、そこに描かれた雲が見えたからかもしれない。

そしてすぐに、私の意識はなくなった。

…………。

目が覚めると、とてつもない倦怠感が私の身体を支配していた。手や足を動かすことはもとより、口を動かすことさえ億劫なくらい。頭も重い感じがして、身体に力が入らない。このまま寝ていたい気もしたが、それでも起きなければならない、と身体のどこかがそう命令していた。

倦怠感に抵抗しながら目を開ければ、見慣れない天井が目に映る。少し首を動かして視線を巡らせると、これまたあまり見慣れないものばかり。しかし、人体の構造のようなイラストや筋肉が剥き出しになっているイラスト、そしてこの部屋中に漂う独特の薬品臭から考えれば、少なくともここが医療施設であるようなところと分かる。壁に掛かった時計は五時半を指しており、窓から差し込んでくる柔らかな太陽の光がそれらを赤く照らしていた。

どうやら、ここは高校の保健室ではないようだ。気分が悪くなった時に何度か寄ったことはあるけど、こんな雰囲気じゃなかったような気がする。加えて私が寝ていたベッドは、ベッドというよりもむしろ診療台のような感じ。その上に清潔そうなシーツをかけられて寝ていたみたいだった。

「っ痛…………」

上半身を起こしてみると、頭に痛みが走った。思わず顔を伏せて頭を抱えてしまう。

「……おや。目が覚めたのか?」

きぃっ、と小さくドアが開く音がすると同時に、聞き覚えのない女性の声が耳に入ってきた。落ち着きのある、大人の女性の声。伏せていた顔を上げると、白衣を纏った女性がこちらへと歩み寄ってくるのが見えた。看護士、というよりは医者のような出で立ち。たぶん、ここの女医さんなんだろう。

「気分はどうかな?」

彼女は私の寝ていた隣にある椅子に腰をかけ、微笑みながらそう尋ねてきた。

「あ、はい……。まだちょっと頭が痛いですけど……」
「ふむ、そうか……。外傷などは特になかったが、結構強く頭を打ち付けたみたいだからな。しばらくは安静にしておいたほうがいい」
「はぁ……」

なんとなく、この人の雰囲気に圧倒されながらも、とりあえず状況を把握するために質問する。

「あの……ここは一体どこなんでしょうか?」
「ふむ、そうか……。そういえば、川口さんはここに来たことがなかったようだからな」

いきなり自分の名前を呼ばれ、多少困惑する。学生証でも見られたのだろうか。

私が状況を把握できずに混乱していると、彼女は椅子から腰を上げ、

「ここは霧島診療所だ。自己紹介が遅れたが、私はここで医者を務めている霧島聖という」

ベッドで上半身だけを起こしている私と同じ目線になるようにしたのだろう、膝を折って微笑みかけてくれた。私の中の医者のイメージは高圧的な態度でふんぞり返るというものだが、この人はちゃんと患者の目線で物事を考えてくれる。私は、素直にこの女医さんに好意を持てた。

そのことに少し安心感を覚え、さきほどの疑問を口にする。

「ええと――霧島先生、どうして私の名前を?」
「ここに搬送されてきた時に名前は聞いているよ。カルテを探してみたが、見つからなかったのでね。この診療所に掛かったことはないのかな?」
「えぇ……。この街には、高校に入学する時に来たものですから」

確か去年の九月に肺炎になったときは、親に隣町の総合病院へ連れて行かれていたはず。この街に来て半年しか経っていなかったし、私も突然倒れたものだから、親も診療所ではなく大きな病院のほうが安心できると思ったんだろう。そもそも、この診療所の事を知らなかったのかもしれない。

「そういえば、なんで私はここにいるんですか?」
「怪我をしたときのことを、覚えていないのか?」
「え~と……なんだか記憶が曖昧になっているので、確認しておきたくて」

最後に覚えているのは、一面に広がる青空と泣きじゃくった神尾さんの顔だけ。それ以降は全く記憶がなかった。頭を強く打ち付けたと霧島先生も言っていたから、あの堤防から落ちたんだろうか。それにしても、堤防は割と高さがあったはずなんだけど、それで外傷がないというのはちょっと信じられない。

しかし、そんなことよりも私はもっと重要なことに気づいた。

「そうだ! 神尾さんは!? 彼女はいったいどうしたんですか!?」

私は慌てて霧島先生のほうへ身体を向ける。思えば、起きてからは彼女の姿が見えない。彼女は一体今どうしているのか。

「ふむ……。川口さんは、神尾さんについて聞いたことはないのかな?」

霧島先生はわずかに眉をひそめながら、訝しげに訊いてくる。私は今日初めて神尾さんに会ったばかりだったし、彼女について知っていることなんかほとんどなかった。だけど、霧島先生の口ぶりから、神尾さんが何かしら普通の人とは違うものを抱えているんだと推測がつく。

私はその質問に対して、沈黙して少しだけ頭を横に振った。すると、霧島先生は多少納得がいったように頷き、立ち上がりながら言葉を繋げる。

「神尾さんは、ちょっとした持病を抱えているんだ。プライベートなことなので詳しくは言及できないのだが――」

そこで言葉を切って、霧島先生はこちらの目を見る。強い意思を秘めたゆるぎない眼差しに私は少しだけひるんだけど、次に出てきた言葉は全く予想外の言葉だった。

「神尾さんを嫌わないでくれないか」
「は……?」

思わず、間の抜けた声で聞き返すように答えていた。どうしてそんな結論がでてくるのか、その明確な理由は分からないけど、それは多分神尾さんの持病というものに関わっているんだろうと推測できる。ある種の病気は、世間的に差別され、それに疾患している人を忌み嫌うような風潮もあると聞いたことがある。現代ではそのような差別思想自体が忌み嫌われるけど、それでもそういった差別が意識の根底に根強く残っていることもある。慣習などとして残っている場合は特にそうだ。この小さな町のような閉鎖的な空間だと、外から入ってくる情報が少なくなるのでそういった偏見が生じやすいのかもしれない。霧島先生は私にそういった偏見を、神尾さんに対して持って欲しくないということなんだろうか。

色んな思いが渦巻いて何も答えられないでいると、霧島先生は机に置いてあったカップに、傍においてあったポットからコーヒーを注いでいく。霧島先生は私に何か飲むかと訊いてくれたけど、そこまで喉が渇いていなかったので丁重にお断りさせていただいた。

「……順を追って話そうか。少し長くなるが、大丈夫かな?」
「はい」

霧島先生はコーヒーを満たしたカップを持って、再び私の傍の椅子へと座る。私が即答してから、ややあってゆっくりと話し始めた。

「まず、川口さんがこの診療所に運ばれてきた経緯から話そう。多少覚えているかもしれないが、はじめに高校の前の堤防で倒れている女の子がいるという連絡が、通りがかった人から学校にあったそうだ。すぐに学校の職員の方々が駆けつけて状況を確認。とくに外傷は見当たらなかったので、とりあえず倒れていた二人を学校の保健室へと運んだらしい。二人共意識が中々回復しなかったので、近所の人に車を出してもらってこの診療所に運び込まれてきたのだ。しかし、なにぶんこの診療所は設備が乏しくてな。外傷が見当たらなかったので、容態を診る程度にしかできなかった。なので、神尾さんには隣町の総合病院のほうで精密検査を受けてもらうように、駆けつけた神尾さんの親御さんに話して搬送してもらったのが、つい先ほどのことだ。ここまではいいかな?」

私はこくんと小さく頷いた。霧島先生は一口だけコーヒーに口をつけ、また静かに続けていく。

「川口さんがこの診療所にいる理由は分かったと思うが――何故二人とも一緒に倒れていたのか、そして何故神尾さんだけが隣町の総合病院で精密検査を受けることになったのか、川口さんも気になるところだろう。まぁ、ある程度の理由は察しがつくと思うのだが……」
「…………」
「学校の方へと連絡して確認したのだが、川口さんは特にこれといった既往歴はないそうだな。症状も、瞬間的な強い打撃による反射的な脳貧血、軽い失神程度だったのだろう。診療所に運ばれてきた時には、ほぼ寝ているだけに近い状態だったからな。大方、堤防から足を滑らせて頭を打ったといったところかな?」
「まぁ……そんな感じです」

私が苦笑いをこぼすと、霧島先生も少しだけ口の端をあげて、またコーヒーを一口含む。けど、カップから口を離した霧島先生の表情は厳しかった。ややもすれば、苦悶の表情ともいえなくもないくらい。次の言葉を躊躇っているということは、傍目にも明らかだった。

時計の針が時をゆっくりと刻んでいく音だけが聞こえる。私は、ただ沈黙するしかなかった。霧島先生が、言葉を発するまで。

幾度目かの時が刻まれた音の後、ふーっと大きく溜息を吐いて霧島先生が静寂を破る。その勢いに乗せてなのか、溜息の後にあわせて再び先生は言葉を続けていく。

「神尾さんも川口さんと同様、寝ているだけに近い状態だった。だが、彼女の持病――正確には病なのかどうかさえ分からないが、とにかく神尾さんは普通の人とは違う何かを持っている。最新の現代医学でも、彼女のことは何もわからない。先天的なものらしいが検査結果も良好としか出ず、そこから判断すれば彼女は健常者としかいえない。だが、そうではないことは周りにいる者は皆知っている。彼女自身も気づいている。それが起こるきっかけも――」

霧島先生は落としていた視線をこちらに向け、語りかけるように、言う。

「誰かと親しくなろうとすると、それがきっかけになる。四肢の異常行動や意識障害などは癲癇という神経症に似た症状なのだが、誰かと親しくなろうとすることを原因とした癲癇は前例がない。もっとも、元々癲癇には原因不明とされるものも多いのでこれといって原因を断定するのは難しい病気なのだがな。彼女の場合も同様、発作のきっかけとなること以外の何もかもが分からない」

霧島先生の声は、わずかに震えていた。カップの中のコーヒーも微妙に波打っている。それが何を意味するのか――霧島先生がどれだけ神尾さんのために治療を施し、時間を費していったのか、そしてそれが悉く上手くいかないことに対する憤りが伝わってくる。そして、神尾さんがそれだけ気にかけられているということも。

「だから、彼女を総合病院へ搬送してもらった。いつも彼女がここに運ばれてくる時は大抵発作は治まっていて意識もはっきりしているのだが、今日はまだ意識が回復していなかったのが気にかかってな。まぁそうはいっても、何かしら新しい要素が見つかる可能性は低いのだが……」

声のトーンを落として、霧島先生が言葉を切る。大きな病院へ搬送したところで結果はわかっている、といった顔つき。それはつまり、今までに同じ結果しか出てこなかったということ。幾度も幾度も希望をかけ、その度にその希望を捨てることになった事実。精神的にも肉体的にも、それは霧島先生を蝕んでいるように見えた。

それを押し隠すかのように、霧島先生はカップに口をつける。話し始めてから数十分。コーヒーは既に冷め始めているだろうけど、霧島先生にそれを気にした様子はなかった。

「――川口さん」
「なんですか?」
「神尾さんを嫌いにならないでほしい」

霧島先生は、話の始めの同じ言葉を繰り返す。

「神尾さんはいつも独りだ。それは彼女自身が、自分のことをよく知っているからあえてそうしているのだろう。そしてそれに耐えられるだけの強さを、彼女は持っている。だから、彼女を認めてそれを受け入れる人物がいれば、それは彼女にとって大きな支えになる」
「…………」
「彼女の、助けになってやって欲しい」

その一言は、切実さを帯びていた。医者と患者の関係として、神尾さんを見守ってきたという事実から出てきたその結論はあまりにも皮肉すぎる。それは霧島先生が彼女の発作に対して全くの無力だという証明に他ならないのだから。

「……私も、できる限りのことはするつもりです」

私の、霧島先生の切実な思いに対する精一杯の返答。霧島先生がどう思うかは分からないが、今の私ではこれが限界だった。

微風が木の葉を揺らし、赤く照らしていた太陽が徐々に暗くなり始める。時計は六時過ぎを指していた。

「それじゃ気をつけてな。お大事に、川口さん」
「はい、ありがとうございました」

診療所のドアで、霧島先生に一礼して帰路に着く。時刻は既に午後七時を回っており、日はもう完全に沈んでいた。商店街はまだぽつぽつと明かりがあるものの、それも午後八時までといったところだろう。都会とは程遠いこの場所は、住んでる人の生活も都会とはまるで違う。子供のころは転居するたびに生活が変わって戸惑ったりそれを楽しめたりもしたのだが、今となっては戸惑いもなくなってしまった代わりにその新鮮さも感じなくなってしまっていた。そのことに少しだけ、物悲しさも感じなくはないが。

こんな時間になってから帰らなくてもよかったかなと思いつつも、身体には昼間のことの影響もなさそうだったし、そんなに遅くまで診療所に居座るわけにもいかなかった。さっきも霧島先生は親御さんが来るまで待っていたらどうだと優しく諭してくれたけど、私の両親は二人ともかなり遅くならないと家には帰ってこない。むしろ迎えに来てもらうより、自分で歩いて帰ったほうが早いくらい。だから一人で帰ることにしたんだけど。

それとは別に、今は一人で考える時間がほしかったから。

「ふぅ……」

溜息とともに、頭を振る。今考えなければならないことは何だったのかということを呼び戻すように。霧島先生が話してくれたことで、私にも神尾さんの置かれている状況がなんとなく把握できていた。彼女の言葉の端々に浮かんできた疑問。私の思い違いでなければ、それらにある程度の答えが得られたと思う。これらを整理して、私は私のとるべき態度を決めなければならない。

神尾さんが始めに見せた、寂しげな笑い。あれは彼女の本音からでたものと考えて間違いはないと思う。私が似ていると感じたのも、彼女の置かれた環境は確かに私と似ている部分が多々あったから。その原因がどこにあるのかという差はあるけれど。

自己紹介をしあったときに名前を言おうとして逡巡したのは、恐らく自分の名前が特異な発作と共に知られているかもしれないという怯えがあったんだろう。誰かと親しくなろうとするたび――と霧島先生は言っていた。ということは、過去に彼女の発作が何度か繰り返して起きていたということになる。正確な数は分からないけど、少なくとも彼女自身がそれを自覚して誰かと親しくなるのを諦めるくらいには。それだけ発作が起きていたのであれば、この小さな町なら彼女の名前が知られていたとしてもおかしくない。彼女もそれを知っていて名前を言うことを躊躇ったんだと考えれば辻褄が合う。

そして、私は彼女の名前を知らなかったということ。彼女にとっては、私が名前を知らなかったのか、それとも知っていてあえて受け答えしていたのかを判別する術はなかっただろうけど、それは彼女にとって嬉しいことだったのだろう。私もそんな彼女の事情を知る由もなかったし、それはうまく事実がかみ合っていたといえる。彼女が私と友達になろうって言ってくれたのも、多分そのあたりが関係していると思う。お互い、それで仲良くなるきっかけを見つけられたんだから。それはそれで良かったと、素直にそう思っておく。

だけど、逆に分からなくなってしまったこともある。

霧島先生は、彼女はいつも一人でいると言っていた。状況を限定した言い方ではなかったから判断が難しいけど、学校に限って言えばそれは確かなことかもしれない。彼女自身も話し相手がいないといっていたし、そのときの態度を考えればその通りなんだろう。けど、とても家の中まで孤独であるとは思えない。彼女の親は間違いなく彼女を愛しているのではないんじゃないだろうか。倒れた娘のもとにすぐに駆けつけるということは、それだけ心配していたという証拠といえる。昔から発作があることを分かっていたとしても、彼女を想う気持ちがあればこそのことだろう。そんな家族に、私が割り込む余地はないはず。だとすれば霧島先生の言いたいことは、私に彼女の学校の友達として仲良くしてやってくれということなのだろうか。しかしそんな簡単な状況とは思えないほど霧島先生の声は切実さを帯びていた――。

気分が陰鬱になってきていることに気づき、音のない溜息を吐いて思考を中断する。

今の状態ではとてもじゃないがその答えを出せそうにはなかった。私と神尾さんは出会ってまだ一日も経ってないんだし、お互いの理解できたことは高が知れたものしかないと思う。長年連れ添った相手でも、ほとんど理解できていなかったと驚くこともあるくらいなんだから、それはまぁしょうがないかもしれない。そもそも彼女の発作に関しては根本的なところで分かっていないし、霧島先生も分からないといってるんだから、理解できないことがあったって仕方がない。

結局、私は彼女に対してどのように接していけばいいんだろうか。

右手を頬にあてがいながら、今日のことを思い返す。霧島先生には誤魔化して言ってしまったけど、あの時私は不注意で堤防から足を滑らせて落ちたんじゃなく、彼女の右手が頬にあたったはずみで足を踏み外して落ちてしまったんだ。彼女の呆けた表情、今も鮮明に思い出せる。だけど私はそれに憤慨しているわけじゃない。その時だって単に驚いて踏み外しただけだし、発作のことを知った今となっては彼女を責める気なんか、もとよりさらさらない。

彼女は悪くない。だけど、なんで私はこんなに憂鬱なんだろう。

彼女のことで分からないことがあったから? それなら聞けばいいだけの話。あまりプライベートなことを聞くわけにはいかないけど、今日のことを改めて彼女から説明してもらう程度なら大丈夫だと思う。その際に疑問が残っていれば、彼女の様子を窺いながら訊けばいいかもしれない。

むしろそんなことよりも、神尾さんの声が聞きたい。『昨日は色々あったね』の一言で済ませて、またお喋りしたい。ただそれだけなのかもしれない。だったら、そうすればいいだけのことだ。

月明かりに照らされて、明かりのついていない自分の家が見ながら、私はそこで思考を切り上げることにした。

翌日。陰鬱な気分を払拭するために清々しい青空が見たかったんだけど、あいにく天気は快晴とは言い難い曇天だった。学校の始業開始の合図は、そんな私の気分が立ち直るまで待ってくれるはずもなく、淡々と自らの役割を果たしていくだけ。朝のショートホームルームで、担任の教師が出席の点呼を取っていく。私が返事をする前に、神尾さんが返事をすることはなかった――昨日に引き続いての遅刻なんだろうけど。担任は少し呆れたような表情を見せただけで、これといった感動を見せることもなく点呼を続けていく。その慣れた反応に、もしかして彼女は遅刻の常習犯なんだろうか、と邪推してしまう。とはいっても彼女には昨日隣町の病院へ運ばれるという事件もあったんだし、担任もそれを知っているはずだから、それが理由かもしれないと思えばそうかもしれないと納得できる。

一通り点呼を終えると、担任は今日のホームルームで委員会に所属してもらう人を選ぶという旨を告げた。その際に席替えも行うようにするつもりだ、というと、にわかにクラスがざわつく。

「先生、今のうちにやりませんか?」

誰かがそう発言し、それを後押しする言葉も飛ぶ。ホームルームを待つまでもなく、このショートホームルームの間に席替えをしてしまおうということだった。今の席は名前順になっており、知人友人と早く席を並べたいという単純な願いがその中に込められている。そして、それはクラスの大半がそうであった。担任としても、例年時間のかかる委員会の委員選出になるべく時間を割り当てておき、授業時間をオーバーしないようにしたいだろう。多少渋ってはいるけど、承諾するのは時間の問題だった。

だけど、私は席替えをしたくなかった。神尾さんと席が離れてしまうのが嫌だった。そうなってしまえば一緒にお喋りをするのが難しくなってしまうんじゃないかって、心のどこかで直感的にそう思っていた。自分の性格と神尾さんの性格を照らし合わせれば、お互いに引いてしまうと考えるのも想像に難くない。

せめて、神尾さんが学校に来るまで。

せめて、神尾さんに一言喋るまで。

席替えは待っていて欲しかった。今日のホームルームまででいい。それだけの時間があれば、私は神尾さんと話す時間が出来るのに。

しかしクラスで圧倒的少数派な私の願いが通じるはずもなく、結局ショートホームルームの間に席替えが行われることになった。担任もこれ以上何やかやといって時間を無駄にするのも意味がないと判断したのか、承諾した後は残っていた連絡事項をさっさと告げて終わる。くじ引きのくじも、人数分の紙切れに数字を書いて適当に折り曲げるだけで出来上がった。その間に神尾さんが登校してこないかなとか、引いたくじの席が神尾さんと近ければいいななどと祈る。

私が引いた席の番号は最も廊下側の列の前から二番目。遅刻で引けなかった神尾さんの分は余っていたくじに割り当てられたが、彼女の席は最も窓側の最後尾。今の私の席だった。それはつまり、ほぼ対極の位置にあたるということになる。自分のあまりの運のなさを、心の内で悔やむ。よりによって――と罵っても、結果は受け入れるしかなかった。

他のクラスメイトの結果は概ね良好だったのか、これといって問題が起こることもなく席替えは終了する。まもなく一限目の授業が始まり、その新しい自分の席で教科書やノートを広げていく。教科担当の教師も軽く自己紹介を済ませて、早速授業に移る。これには教室の生徒が大ブーイングで反感を買うことになったけど、私はどうでも良かった。日本の教育なんて所詮詰め込み勉強なんだから、授業なんかに期待できるわけがないんだし。それより、私は神尾さんのことを考えるほうが重要なんだ。

その彼女が登校してきたのは、一限目の授業が終わって二限目に移る間の休み時間だった。神尾さんは席が替わっていることに多少戸惑っていたみたいだけど、元々彼女の席だった場所に座っていた女生徒に教えてもらい、その後ろの自分の席に着席する。それを見た私はすぐにでも彼女と話がしたくなったけど、事情が事情なので授業の間のわずかな休み時間には向かない。私自身の話なら一言で済ませられるんだけど、彼女はそうはいかないかもしれないんだし。また、かかりつけ医である霧島先生から伺ったとはいえ、彼女のプライベートな話まで聞いてしまっている以上、そのことを彼女にも教えなければフェアじゃないと思う。それを説明するには、もっと長い時間が必要だ。まだ今日までは午前中の授業だけでお昼休みはないし、放課後のほうが都合が良いだろう。

だから私は、すぐにでも駆け寄りたい気持ちを抑え、彼女を一瞥するだけで済ませることにした。神尾さんは机に座って俯いたままで、こちらの様子に気づいた素振りはなかった。彼女がこちらを見て、何も話しかけない様子を怪訝に思わないだろうかなどと色んな不安を抱えながら、ひたすらに長く感じられる休み時間を過ごす。むしろ気を使わないで済む分、授業時間中のほうが心を落ち着かせることが出来た。

そして迎える放課後。自分の性格を振り返れば、時間が経てば経つほど、こういったことの決断は鈍ることが多い。席替えで席も離れてしまったし、なるべく今日のうちに神尾さんと話がしたかった。加えて言うならば、なるべく余計な噂を立てないように人の少ない場所のほうがいい。そうでなくとも、彼女が周りから違う視線を受けているというのは霧島先生の言葉だ。彼女の負担は、増やしたくない。

だから放課後になり、彼女が教室を出るのを待って話しかけるつもりだった。その後で人のいないところへ場所を移してから話したほうが良いと思ったんだけど、私の誤算だったのは神尾さんが放課後になると同時にそそくさと帰ってしまったことだった。慌てて、私は靴を履き替え彼女を追いかける。

それほど時間が経っていなかったことも幸いで、校門を出てすぐの堤防に沿う道で彼女の後姿を見つけることが出来た。隣町からバス通学している子も多いということもあり、この町の住宅地方向へ帰る子は比較的少ない。完全ではないけれど、妙な噂が立たないようにする状況としては割と好都合だった。

「待って、神尾さん」

呼びかけた後姿が、こちらへと振り返る。それに合わせて風に舞うようにポニーテールも揺れる。少しだけ翳りを見せる、彼女の表情。

しかし、彼女は声をかけたのが私であることを認めると、その表情を大きく変えた。少し大袈裟な気もするけど、彼女は明らかに狼狽していた。やっぱりというか何というか、昨日のことで神尾さん自身も参っているんだろう。

「か、川口さん……」

彼女が困った顔で返答する。私も小走りで追いついたため、話す前に少し気息を整えようと大きく息を吐いていると、

「ごめんなさい!」

突然、彼女が頭を下げる。それがあまりに突然だったので、私は驚いて言うべき言葉を失ってしまった。その間に、彼女がまくし立てる。

「昨日のこと、川口さん怒ってるよね。いきなり突き飛ばしたりして……。私、ヘンな子だから……。いつもいつもそうだったのに、私が願ったから、私にも友達が欲しいって思ってしまったから、川口さんまで傷つけちゃって……。私のことはみんな避けるのに、川口さんが話しかけてくれたのが凄く嬉しくて、友達になりたいなんて思ってしまったから……。ずっと、独りでいれば良かったんだよね。そうすれば、誰にも迷惑かけないで済んだのに……」

少し顔を上げた彼女の瞳には、今にも溢れんばかりの涙が溜まっていた。彼女の言葉も泣き出しそうな感情を必死で抑えているという感じで、見ているこっちが苦しい。私も彼女の言葉を否定しようとしたけど、気だけが急いて焦っているのかうまく言葉が出てこない。何かを言おうとしても、口だけが動いて声が出ない。

「今までずっと独りだったんだから、これからも独りで居ればよかったんだよね」

諦めに似たその言葉に、胸の奥がちくりと痛む。どうやら私の頭も混乱しているようだった。

「だから、ごめんなさい。川口さん」
「?――待っ……!!」

言い終わらないうちに、神尾さんは道の先へと駆けていってしまっていた。今すぐにでも追いかけて、彼女の誤解を解くべきだ。頭はそう思っているはずなのに、足が前に進もうとしない。どうしてか、分からない。感情が入り乱れて、私が私ではなくなっているみたいだった。何を言おうとしていたのか、何を言わなくちゃならなかったのか。感情が理性の限界を超えてしまったんだろうか。

結局、私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。遠ざかる神尾さんの後姿を見つめながら。最後に、涙を零しながら走り去った彼女の顔だけが妙に印象深かった。

彼女は、怯えていた。それは今までにも何度も何度も似たような状況になり、その度に罵られ、気味悪がられ、疎まれてきたという経験があればこそ。怯えさせるつもりはなかった。むしろ、彼女と仲良くなりたかっただけなんだ。そんな言い訳なら、容易い。

もっと彼女の立場を理解しておくべきだった。私は心のどこかで、この状況を楽観していたのかもしれない。私が有頂天になりすぎていたのかもしれない。初めて出会った時でさえ、彼女はひどく怖がっているように見えたというのに。さらにそれを裏付ける話を、予め霧島先生から知らされていたというのに。話さなければならないことさえも話せず、私は彼女の心の傷を無闇に触り、広げてしまっていただけだった。

彼女の話を遮ってでも、私は彼女を励ますべきだったんだ。気づいた誤解を、その場で訂正するべきだったんだ。今更後悔しても、遅い。

私は、馬鹿だ。

気づくのが遅すぎた。何一つ、彼女の力になれていなかったのだから。

それっきり、私は神尾さんと話すことが出来なくなってしまった。元来の引っ込み思案な性格が災いして、彼女と会っても気まずい雰囲気が漂ってしまう。彼女もそれが分かっているのか、出来る限り彼女は私との接触を避けた。それも彼女なりの優し過ぎる優しさと言うのだろうか。彼女に話しかけることを躊躇ってしまう自分が、とてつもなく嫌だった。

時間が経っていくにつれ、私は私の予想したとおり、醜い臆病者へと変わっていった。また彼女に拒絶されてしまうんじゃないだろうかという不安。しかも、それは入学当初より遥かに強くなっていた。というのも、彼女の発作がどういったものなのか、クラスで知らないものは居なくなってしまったから。その原因の大元は言うまでもなく入学式の日のあの事件のことで、いつの間にかそれがクラスに広まってしまっていたんだ。加えてそれを知らなかった人が彼女に話しかけ、同じように彼女が発作を起こしたということも、『彼女に話しかけるべきではない』という認識を広める手助けとなってしまった。

私は最初の被害者というような同情の視線を向けられ、神尾さんは敵視されるような存在となっていた。そんな状態で私が神尾さんに親しくしようとすれば、同情の視線が一転するのではないだろうかという新たな恐怖が私を襲う。他の全員から爪弾きにされる自分を恐れて、私は私を守るために、神尾さんを見捨てることになってしまった。卑怯者、臆病者という誹りを受けても、それでも私は自分の身の可愛さを優先してしまう、まさに卑しくて汚い人間だった。

何かしら、行動を起こせばよかったかもしれない。直接的でなくても、彼女を支えるための何かを。例えば霧島先生に相談してみるとか、そういったことでも私自身を改善することは出来たかもしれない。

しかし、私は何も行動をしなかった。ここまでエゴを剥き出しにして生きている自分に何か価値でもあるのかとさえ思ったりもするけど、私は怖かった。そんな自分を守るために、自分にさえ嘘をついて正当化してしまうんだから。彼女のことを何度も見ながら、だけどそれ以上のことはできずにいた。

そして、私たちは夏を迎える。

学期末の試験も終了してその開放感に浸りながら、その結果に一喜一憂しながら、高校は学生たちが待ちに待った夏休みを目前にしていた。昨年と同じように、今年もまた学園祭実行委員会が試験終了後に活発な活動を見せており、彼らの熱の入った演説――というか委員の勧誘は、そこそこにウケが良かった。毎年上昇しているような気がする盛夏の暑さのせいなのか、去年と比べれば、少しみんなの雰囲気が盛り上がっていなかったかもしれない。そう感じるのは、私が去年よりは冷めた目で見ている立場だからなのかもしれないけど。

そんな七月の、終業式前日の日。教師たちは生徒の成績評価に時間を割くため、学校は既に午前中授業となっている。誰も居ない自宅に帰ってきて、自室で本を読んで過ごしていた時だった。リビングの方から電話のなる音が聞こえる。

昼間、私の親がこの家に戻ってきているということはほとんどない。私が物心ついた後は、数えるほどしか見ていないくらい。だから昼間の電話を受けるのは私しかいないんだけど、その電話のほとんどはセールス電話で、実際用事があって電話をかけてくる人は稀なこと。それでも学校からの緊急連絡だったりすることもあるし、どこから電話がかかってきているのか分からない以上、電話に出るしかない。せめてそろそろ電話を買い換えて、留守番機能くらい使えるようにしてほしい。

そんなことを考えつつ、電話の受話器を手に取る。

「はい、川口です」
「よぅ、俺、観鈴」
「はい?」

思わず素っ頓狂な声で答えてしまった。電話の主は明らかに男性の声なのに、何故女性名を名乗っているんだろうか。新しい詐欺の電話なんじゃないかという疑問も出てきたけど、それにしてはあまりに稚拙すぎる嘘だし、何よりその名前には色々な思い出がある。偶然なのかもしれないが、この声の主はもしかしてあの神尾さんと関係がある人なんだろうか。

「というのは嘘だ。一瞬、引っかかったな。でも、観鈴の家から電話をかけているのは本当だ」
「はぁ」

どうやら思い違いではなかったらしい。この声の主は神尾さんの家から電話をかけてきているようだった。意味が分からないけど、この男性は神尾さんと親しい間柄にあるんだろうか。声は大人っぽいんだけど嘘のつき方は年齢不相応という感じ。それだけなら変わった人だなぁ、で済ませられるけど。

「あいつと遊んでやってくれ。俺は忙しいんだ」

その一言にドキッとした。四月のあの日のことが、走馬灯のように頭を駆け巡る。

「神尾さんと? それは……構わないですけど……」
「なら約束だ。えっと明日の――」

困惑して躊躇いがちに返答していると、唐突に電話が切れた。思わず受話器を耳から放して、訝りながら見つめる。あまりにもわけの分からない電話だったけど、まぁ単なるいたずら電話に過ぎないものだろう。これが詐欺とか何らかの犯罪をにおわす電話なら神尾さんと連絡を取ったほうが良いかもしれないけど、いたずら電話にまでは構わなくてもいいか、と結論付けて受話器を置く。

でも、もしいたずらじゃなかったとしたら?

自室に戻りかけていた足が止まる。電話の声の主はかなり投げやりな口調で話していたのは間違いないし、それだけ考えてみればどうでもいいことと片付けてしまっても問題はないかもしれない。たぶん彼女の兄弟が彼女の相手をするのが面倒でうんざりしているとか、従兄弟が仕事で近くに寄っただけなのに彼女が遊ぼうと誘ってくるとか、そういった感じなんだろう。それなら、これを口実にして彼女ともう一度遊ぶ機会が持てるのではないだろうか。それでなくともちゃんとあの時のことを話し、謝ることもできるんじゃないだろうか。電話の声が投げやりなせいで、逆にいっそうそれが真実味を帯びてくる。

受話器の先に見える期待を膨らませて――私はそれを打ち消した。

真実味を帯びているからといって、いたずらではないという可能性がなくなったわけじゃない。もしかしたらこれが単なるいたずらで、噛み合わない話をして恥をかくのも気分のいいものじゃないし、そもそもそんな計算尽くめの会話をしようと考えた自分が嫌になった。友達にそう思われることが、私は何よりも嫌っていたんじゃなかったのか。今までそんな関係でしか付き合ってこなかったのが嫌で、本当の友達が欲しくてこの街に来たんじゃなかったのか。それなのに神尾さんに対して、私自らがそうしようとしたということは、神尾さんへの侮辱に等しいんじゃないか。いったい何のために、神尾さんと仲良くしようとしているのか。

吐き気がする。自分自身の自己中心的過ぎる考え方に。

どす黒い気持ちを引きずりながら、私は自室へと戻った。そして、その気持ちをひたすら抑え込もうと本を読み漁り、それだけで時間が過ぎていくことにわずかながら安堵感を覚える。時間が経てば、この気持ちは消えてくれるだろう。そう、祈りながら。

翌日の終業式。とくに変わり映えもしない、いつもの日常。

昨日の電話のことについても、神尾さんは何も言ってこなかった。やっぱり彼女の知らないところで起きていた単なるいたずら電話だったんだろうか。ちょっと訊いてみたい気もするけど、心のどこかがそれを嫌がっている。

気まずい関係というのは嫌だけど、これ以上悪化させたくないという不安。一年生の頃と全く同じ選択肢。それが単に現実から目を背けているだけに過ぎないことなんだって分かっていても、それが今の自分にできることなんだと言い聞かせるしかない。神尾さんも、こんな私とは付き合いたくないだろう。結局、一年生の頃と私は何一つ変わっていないのだから。それとなく済ませる友人関係も、欺瞞に満ちた自分の心も、二年生になったくらいでは変わらなかった。このまま一生変わらないのかもしれない。それが私の運命なんだろう。

だから、何もしない。それが私の選んだ、二度目の同じ選択肢。

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