Phantasy Garden

レインはひたすらに走っていた。焦ってはいけない、とは頭では分かっているものの、やはり自分が置かれた状況を考えれば焦ってしまうのも無理はないことかもしれない。なにしろ一つ間違えば命を落としてしまう可能性が非常に高いのだ。そこかしこから、死の手が押し迫っているような恐怖感にいつまで耐えられるだろうか?

「……いい加減諦めてくれてもよさそうなものなんだけど……!!」

思わず愚痴がこぼれる。その自分勝手な希望的観測に自嘲の笑みを浮かべながら。なぜ自分の命が危険にさらされているのか、といえば、それはここがそういうところだ、としかいいようがない。人工的な施設としか思えない坑道区域は、パイオニア1の一部の人々が極秘に建設した場所であるとハンターズの間で実しやかに囁かれている。噂の真偽はその真実を知っているとされるものたちが消えてしまったことで、事実上闇に葬られたようなものだが。あるいはその一部を知っているかもしれないパイオニア2の軍部だが、岩より硬い鋼鉄の口を割らせるのはそう簡単なことではないだろう。軍部の機密主義が今に始まったことではないが、報道規制がしかれている状態では手も足も出ない。

が、結局そんなことに関わるのはさらにごく一部で、大半のハンターズはその場所が存在する理由よりも、その場所が存在する事実に暗澹たる気持ちは隠せない。暴走した機械は殺戮の歩みを止めようとせず、容赦なく死を押し付けてくる。時にはその存在が邪魔と認識すれば、同士討ちも厭わない融通のなさ。そのくせプログラムされた命令は、たとえ半身を失おうと実行する。そんな無機物の塊が、今この坑道区域を我が物としているのだから始末が悪い。どこをつついても出てくる言葉はいつも同じだ。クソッタレと。

「ほんとにそういいたいけどね!?」

それを言うことが許されるのは、その区域を生きて出られたものだけだ。もしくは死を迎えようとしている直前のものか。そんなことに思考を回す暇があるなら、次の一手を考えなければならない。さもなくば、すぐ真横で爆発四散したミサイルと運命をともにすることになる。坑道区域で出会いたくないエネミーベスト3(誰が集計・編集しているのか知らないが)のほぼ確実上位に食い込むエネミー、バランゾ。俗称、歩く戦車。熱探知自動追尾型多弾頭ミサイルと大量の対人炸裂地雷を積み込んだ自走型重装甲兵器とまでいえばなんとなくわかるだろうか。そのエネミー類の上位種にあたる。自走、といってもさほど速度が出るわけではないが、人の足で逃げきるのは難しい。直線的に逃げようものなら間違いなくミサイルの餌食となる。かといって重装甲という名も伊達ではなく、その青い装甲の塗装を剥がすことすら難しいと言わしめる装甲の硬さもある。命と手間が惜しければ、さっさとやり過ごすのが最も賢い選択だといえる。にもかかわらず、レインがこの最悪の敵とやりあう理由は。

(――しょうがないじゃないの!?)

そう言おうとしたのだが、目の前に必殺の地雷が設置されたのを見て思わず息を止めていた。実際にそれが一撃で死ぬ威力をもつわけではないが――運や実力がなければ死んでしまうが――それは確実に動きが鈍り、ヘタをすれば動けなくなるかもしれない。そしてその次に待っているのは、まず間違いなく無尽蔵に襲いくるミサイルである。つまり、いくら威力が低くてもその後のことも考えるならばそれはまさに必殺の攻撃だろう。そんなものを踏むわけにはいかない。

身体は、筋肉は、頭が働く前に動いていた。経験的反射とでもいうだろうか、とっさに横っ飛びで地雷を回避する。空中で横に回転して身体の向きを調整しながら受身を取るが、着地とほぼ同時に衝撃波がレインを襲う。あまりの衝撃に二、三歩たたらを踏みながら、その衝撃がミサイルと地雷の爆発によるものだと瞬時に理解した。さらに閃光と煙が止まぬうちに、煙で覆われた視界の中でこちらに向かって黒い何かが動いている。舌打ちする暇は無かった。それがミサイルだと認識すると、姿勢を低くしてそのミサイルのほうへと足を思いっきり蹴りだす。無論、ミサイルに当たるつもりはない。

十分過ぎるほどにひきつけておき、一気に追尾を外す。それが最も確実にミサイルのロックを外す方法である。リスクは当然のことながら大きいし、熱探知型の場合はすぐにまたロックされてしまう。しかし、今この状況においては有効であった。なぜなら、すぐそこが壁なのだ。壁にぶつけてしまえば衝撃でミサイルは爆発する。バックファイアから逃れなければならないという新たな問題はあるが、ミサイルと対峙するよりはまだいくらかマシである。

ミサイルをぎりぎりでやり過ごすと、レインはそのままそのミサイルの出所――バランゾへと距離を詰める。ミサイルはなおも追尾しようと旋回する動きを見せるが、壁との距離が足らず激突、そこで爆発を起こしていた。バックファイアは大丈夫なようだったが、ただ煙がいっそう濃くなってしまっていた。じりじりと凄まじい熱波が肌を灼く。

その痛みに顔を顰めながら、レインは煙の中に目標を補足した。相手はそもそも機械なので煙などで視界がゼロになったりはしない。生体レーダーで判断すればいいだけだろうから。ミサイルの砲身がこちらに向いているのが見え、その底光りする黒さに思わず息を呑む。

レインが膝をばねが伸縮するように動かすのと、砲身からミサイルが放たれるのはほぼ同時だった。ミサイルはそのままレインがその一瞬前までいたところに突き刺さるが、レインはすでに宙へと身を躍らせている。爆風を後ろに感じつつ、高く跳躍したレインは思い切ってバランゾの頭上へと飛び乗った。

バランゾには腕が無い。必要ないからだ。戦車としての役割がほぼ全てだというのに、無駄な機能をつけるということはそれが弱点にもなりかねない。しかし、レインはそれを逆手にとったのだ。飛び乗られたバランゾはなす術が無い。自分の頭上を直接攻撃する方法がないので、ただぐるぐるそのあたりを旋回することしかできない。唯一の死角であるともいえるのだ。

レインは重心を落として回転の遠心力に耐えながら、腰から抜き放ったダガーで装甲を殴りつける。ハルパーのような変わった形状を構成するフォトンの短剣だが、ほとんど行きずりでここにいるレインは他に武器を持っていない。この武器はすばやく扱えるのだが、いかんせん威力が低いせいでバランゾの装甲に対して有効かどうかは甚だあやしいところだ。

だが、もとよりレインはそんなことを期待していたわけではなかった。バランゾの装甲にこの短剣が通用するとは考えていないし、これは本来の目的の伏線なのだ。微弱な空気の振動とともに、バランゾが回転したまま少しだけその機体をブレさせる。あの追尾ミサイルを放った衝撃だ――とレインはすぐさま音のした方向を探るため、辺りに視線を巡らせた。そしてその視界に捉えたのは、右後方にまだ残っている煙のなかを甲高い音を立てて飛行するミサイルだった。そう確認するとレインは完全に身体をそちらへと向き直らせて、ミサイルの方向と速度を見定める。ミサイルはゆっくりと上昇旋回しながら確実にこちらへと向かっていた。その数、三基。なおも旋回を続けるバランゾは無視して、腰を屈めたまま滑るような足取りで身体の向きだけはミサイルの真正面へと固定する。超人的なバランス感覚が無い限り、まず不可能な動きである。ミサイルの弾頭を見つめながら、着弾のタイミングを計る。全てが刹那の世界。その世界がスローになっていく中、レインは冷静にその軌跡を見ていた。

瞬間、音が消える。世界が回転する。爆発の一瞬、レインはほとんど水平に自分の身体を投げ出し、身体をひねって受身を取っていた。視線はバランゾへと直撃するミサイルに固定したままで。

着地までの時間は一瞬とも永遠ともいえた。それは自分の意識一つでどうとでもなる。そしてその時の間に、攻撃のイメージを増幅させる。バランゾは自分のミサイルを被弾し、その装甲を破壊していた。強力な武器と強力な防具を合わせた敵でも、矛盾が生じるものだと、レインは皮肉に苦笑する。そしてその壊れた装甲は邪魔といわんばかりに、バランゾが装甲を自ら投棄する。一定以上のダメージを負うことで、バランゾはそうなるようにプログラムされている。それをレインは知っていたのだ。ミサイルの自爆だけではダメージが足りないと思い、ダガーでダメージを追加していたのも全てはこの瞬間のため――つまり、バランゾが装甲を放棄して全方位攻撃モードになる瞬間。

「フォイエ!!」

その言葉とともに、レインの体内から攻撃のイメージが具現化される。炎を相手に纏わせる、決定的なダメージを与えるためのイメージが。

炎系初級テクニック『フォイエ』。通常、このテクニックは敵に火球を投射してダメージを与えるのだが、イメージを変更してバランゾのミサイル発射口を狙い、それを囲むように発動させる。レインの思惑は、発射直後のミサイルを誘爆させることだった。

果たして、十数ものミサイル発射口が開くと同時、虚空に出現したフォイエとミサイルが重なる。不意の衝撃を受けたミサイルは当然のごとく爆発し、またこれも当たり前のことだが、四方八方からバランゾは自分のミサイルの爆発を受けることになる。その威力はさすがというべきか。装甲を投棄したせいで防御能力が格段に低下し、また攻撃能力が格段に上昇したわけだが、その攻撃が全て自分に向けられて耐えられる由もなかった。

ミサイルが爆発する衝撃波が収まり、視界を覆っていた煙が次第に晴れていくと、そこには無残な姿で鎮座するバランゾがあった。この姿だけを見れば、なぜだかこれがこの坑道区域において最強といわしめるほどのエネミーということはいかにも滑稽な気がした。そして、それを一つ破壊するのに手間取る自分さえも。そうとでも思わなければ、この先が思いやられそうだというのが素直なところであった。そのことにレインは少しだけ口の端を吊り上げる。苦笑めいた様子というのは隠せなかったが。

バランゾが完全に動かなくなったのを確認すると、改めて自分の置かれた状況を整理することにした。薄暗くて不気味な地下施設といえばそのままだが、それ以外に形容する言葉が見当たらないほど陳腐な施設。いや、それさえ適当でないかもしれない。この坑道区域というのは、とにかくそういうところだ。軍部と何かしら関係があるのは一目瞭然、そもそもここには軍が保有しているはずの兵器がある。バランゾもその筆頭だ。しかし、何の目的でここが建造されたのか。その理由を事細かに知っている人物はほとんど存在しない。もしかしたら、いないかもしれないほどに。この珍妙な建造物はパイオニア1の人が作ったにしてはあまりにも巨大すぎるが、しかしそれ以外に考えることができない。いったいどこからこれだけの資材を用意できたというのか? 気味の悪い生物を思わせるような紫色の光と、無機質さが目立つ薄い青の光が混じった区画。何年も人がいなかったようでもあるし、今ついさっきまで人がいたような矛盾した雰囲気を併せ持つ空間。

「…………ぞっとしないわね…………」

そう呟くと、肺が酸素を求めるように苦しくなる。先ほどの戦闘で、予想以上に疲労しているらしい。正確に言えば、極度のテクニック使用による精神疲労だが、肉体疲労と違って痛みは無い。だが逆にそうであるからこそ、気づいたときには重症に陥っていることが多いのだ。

(――自覚するほど危ない状況、ってわけね…………)

ふっと自嘲気味に苦笑する。仕方が無かったのだ。このバランゾは倒さなければならなかった。視線を少し動かすと、赤いランプに装飾された扉が見える。区画と区画をつなぐ、通路へと出る扉だ。先へ進むにはあそこからでないと進めない。

坑道区域に限らずどの区域でもそうだが――パイオニア1の人々によって造られたこれらの扉は、だいたいが自動警戒システムを内蔵している。例えば地上の森では、原生生物が入り込まないように設定されていた。現状から判断するとあまり効果を発揮しなかったようだが、とにかくその一定区画から反応が消失しない限り警戒システムが解除されない。この扉もおそらくそうだろう、扉自体の警戒システムがどのように設定されているのか分からないが、他の坑道区域においても区画内のエネミーを駆逐しない限り警戒システム解除ができないことが多々あった。ここも、人が接近しても開かなかったのだからまず間違いないはずだ。

疲労で悲鳴をあげている身体に鞭打ちながら、身体を引きずるように歩いて扉へと近づく。だが、不思議なことに扉は警戒状態のままロックを解除しようとしない。

(…………?)

怪訝に思いながら、扉の正面までなんとか歩く。普通ならもうロックが解除されてもおかしくは無いほど時間が経過していた。解除用のシステムがある? 確かに、その可能性もなくはない。スイッチングタイプの解除方式だといくら敵を殲滅したところで無駄骨である。あまりそれは考えたくは無いが。

しかし、周囲にそのようなシステムはなさそうである。スイッチは誤作動を起こさないように、人間のみ反応するような感知方法がとられているから、すぐ傍に設置するほうが都合がいいはずだが。とくにスイッチングタイプの場合、扉の形状が少し違うはず――と思った瞬間、背筋に悪寒が疾る。同時、冷気とも思えるような風が首筋を撫で付けてきた。

(――何か、来る!?)

振り向く暇も無く、とっさに横っ飛びでその場を退く。爆音のような耳を劈く高い音に顔を顰めこそしたものの、その何かの攻撃を紙一重でかわしきれたらしい。だが、態勢を立て直しながら、経験と勘が告げた危機を理解するのには数秒を要した。

青と赤の、双子の悪魔。初めに出てきた言葉はそれだった。今この状況においては、それはまさしく悪魔であるのだから。薄青のシノワブルーと深紅のシノワレッド。それぞれシノワビート、シノワゴールドの上位機種といわれる、バランゾと並んで坑道で会いたくないエネミーである。その機動はすばやく、人の足では走ってでも逃げ切れない。攻撃一つをとってもバランゾの誘導ミサイルと威力では引けを取らない。加えて距離を無にするジャンプ、それぞれに備わる特殊能力、攻撃しようとも仰け反りすらしない耐久力は、ハンターズたちに規格外の反則的強さとも言わしめる。その二機体が同時に出現したときは、熟練のハンターズでも躊躇を見せるほどだ。シノワブルーは電磁波透過能力による透明化機能、シノワレッドは周囲にまで影響を及ぼす自己修復機能と能力強化機能をもつので、それらがうまく連携攻撃となって生半な攻撃ではダメージすら与えられない。

レインもまた、その現実に軽い頭痛を覚えていた。分かっている。この二機体を倒さないことには、次に進むことはできない。扉のロックが解除されなかったのも、この二機体が残っていたからであろうということは容易に想像できる。ただ、エネミーを感知するレーダーの確認を怠ったことは失態だった。死角などいくらでもあるのだ。苦虫を噛み潰したような表情で、反省する。これからの戦いで、それは貴重な経験として役に立ってくれるだろう。迂闊さは自らの窮地を招く、と身をもって知ってしまったからだ。ただし、生きて帰ることができれば、の話であるが。

「帰ってやろうじゃないの!!」

一声吼えて、レインは正面にダガーを構えた。腕をクロスさせ、腰を落として重心を低くする、ダガー特有の構え方である。この構えは強い打撃を放つことを目的としたものではなく、最も消耗を少なくするための構えである。つまり、基本的には防御主体の状態といえる。勿論レインは防御だけに徹するつもりなど毛頭も無かったが。一発必中一撃必殺で、敵の動力伝達系を破壊する。それさえできればいい。ちょうど人間の急所にあたる、各部の露出した機関を破壊することができれば、本体の破壊は無理だとしてもほぼそこで決着はつく。

呼吸が次第に深くなり、感覚が研ぎ澄まされていく。機械の塊が戦闘の気配などを理解できるはずは無いが、まるでそれを理解しているかのように隙をうかがうような動きでシノワブルーとシノワレッドが旋回する。

先手必勝。先に動いたのはレインだった。旋回の軌道を見極め、最も接近する位置に来る寸前で爆発的に加速する。目標はシノワレッド。放っておけば何度も自己修復を行われてしまう。それはあまりにも効率が悪いし、戦いが長引けばその分こちらが不利になる。先ほどのバランゾとの戦いでの精神疲労が治ったとも、「それどころかわずかさえ回復していない状態である。蓄積すれば、やがて肉体にも影響を及ぼす。もとより、身体も万全とは言えない。

頭の片隅でシノワブルーの位置を計算しておきながら――完全に無視するのは危険すぎるのだ――シノワレッドに一気で肉薄する。隙、というほどでもないが振りが大きいパンチは確実に交わして、すれ違いざまに右肩付け根辺りを薙ぐ。間断なく、ジャンプ斬りで追撃してくるシノワブルーをスウェイバックでやり過ごし、さらに身体を入れ替えてモーションなしの突きをシノワレッドの右膝に加える。わずかに身体を揺らせたシノワレッドの一瞬を逃さず、最後は背面に回って腕を水平に回しながらダガーをシノワレッドの首筋辺りに躊躇無く叩き込んだ。

勝利――そう確信した瞬間、わき腹に強烈な打撃を喰らっていた。

レインは何かに引っ張られたかのように後ろへと吹き飛び、二、三度床に叩きつけられる。半端ではない衝撃に、思わず嘔吐感を覚えていた。訳がわからない。自分が吹き飛んだ理由を理解するのに、情報が足りない。

だが、見据えた先に悠然と佇むシノワレッドが、その全てを語っていた。力負けした自分と、ダメージの様子さえない相手と。先ほどの衝撃はこちらの攻撃による反動を無視した当身だろう。もう少し威力が高ければ、あばら骨の数本は折れていたかもしれない。むしろまったくの助走も無く、機体を反転させた際の遠心力だけで放った当身が人一人を軽く吹き飛ばせるだけの威力を持つことのほうが問題ではあったが。

完璧に機関部へと入っていた攻撃を難なく無視できたのも、ある程度分かった。それは、絶対的な攻撃力の不足。ダガー程度の威力では、露出した機関を覆うフレームさえ破壊できない。それはとりもなおさず、こちらが相手に対して勝つ術が――かなり限られているという事実に他ならない。敵を迎え撃つべくレインはダガーを中段に構えて――そこではたと気が付く。シノワブルーはどこへ行った!?

反射的にレインは最も分かりやすい死角である後ろを振り向いていた。そしてそこに、目的を果たすためだけに存在する音の無き暗殺者が見えてしまった。ゆっくりと振りかぶられていく死神の引導が、なぜかはっきりと認識できていた。ほぼ完全に密着しているこのゼロ距離では、上半身をひねった状態から離脱するためのエネルギーを得るための時間がない。理解ではなく本能で、その鎌の射程距離から逃れられないことを知ってしまったのだ。

同時に、背後から静かな殺意が押し寄せてくる。シノワレッド、と考えなくても分かることだが、死角で見えていないはずのその気配が今になって鮮明に分かるのは皮肉だった。シノワレッドも確実に必殺の一撃を繰り出してくるだろう。時間的にはシノワブルーの攻撃が先に届くだろうが、そこまで細かく認識できていないはずだ。勢いのままに同士討ちしかねないほどの攻撃も、躊躇無く繰り出してくるのはそれが故であろう。もっとも自分が死んだ後のこの二機体の行方など知ったことではないが。

そして――目の前を通り過ぎた閃光も、幻覚か錯覚に過ぎないだろうと信じて疑わなかった。そのほんの少し力を入れただけで消え入りそうな淡い光が、シノワブルーの腕を引き千切ってしまった事も。さらに一つ、また一つと次々に過ぎ去っていく閃光が、シノワブルーを光の奔流の中へと飲み込んでいく。もし自分が死んでしまったというわけではないのなら、シノワレッドも光に飲み込まれたという希望を抱いてもいいかもしれない。

白昼夢か死後の世界か――どちらとも判然としない、不安定な感覚。音が満ち、光があふれ、全てが閃光に塗りつぶされていく。

――――――レイン――――――。

自分の呟きか誰かの囁きか。それも分からない。だがそれだけは知りたかったような気がした。たとえ記憶をとどめることができなくとも。レインはただ、その光の満ちた世界に身を任せるだけであった。

雨か霧か、煙る視界に少しだけ煩わしさを覚えながら、口腔内に溜まった血を吐く。身体は完全に冷え切っていた。さっきまで騒音といえるほど煩いと思っていた雨音も、今はただ静かに地を叩くだけである。

ふとそんな感傷的なことを思いつくのは久しぶりだ、と我知らず口の端が吊り上がった。まったく幾年月を重ねたかさえ記憶に無いほどの昔には、そんなことを思ったこともあるかもしれない、と。感傷は単に思い出の風化を早めるだけだ。そこに意味は無い。過去に意味を求めたところで、現在に何が還元されるというのだ? 生きる希望を捨てるときには多少の役には立つだろうが、と声には出さずに付け加える。過去にしがみつき、現在を放棄して、未来を絶望するにはちょうどいいだろう。そんな人間はいくらでもいた。

結局のところ、それは自分の意志が弱まったときに心に浮かぶ幻像なのかもしれない。もしくは偶像か。どちらにしろ意味は変わらない。好ましくない、という点では。

吐き出す息が、白く視界を染め上げる。それほどの時間は経っていないはずだが、空を覆う厚い雲の裏側では陽が暮れ始めているのかもしれない。小雨とはいえあまり雨に打たれるのも身体に良くないだろう。とくに衰弱し始めている今の状態では、ちょっとしたことが致命的なことになりかねないのだから。

そう思いはしたものの、とった行動はまったくもってゆっくりであったが。剣に滴る血を払い、その血の主がもうこの世に存在しないことを確かめてから剣を収める。相手に同情をするつもりは無い。命の駆け引きにおいて、勝者が敗者に情けをかけるのは無粋ではなかろうか。ましてや慰めなどは、相手に対しての侮辱に等しい。

「………………………………」

剣を収めて、空いた右手を見下ろす。意味があったわけではない――が、感触というか余韻というか、エネルギーが残ったような熱さがあった。目を閉じてその右手だけに集中すれば、次第にそのエネルギーを知覚することができてくる。幾度とない死線をくぐり抜けた身体、その経験のほとんどが右手に収束している。単なる利き腕といってしまえばそれだけだが、技も力も罪さえもこの右手が語ってくれる。それらの潜在的なエネルギーを、経験を馬鹿にするつもりはない。それが自分を生かしてくれているということも疑いない事実。経験は自分の辿ってきた証であるし、言い換えれば自分自身と同義である。

だが奇麗事で終わるような、潔白な経験だけではない。泥臭い血の経験もその凄惨さを伝えることができれば立派な経験だ、と高尚なことをいう輩もいるかもしれないが、それを背負う自分はどうなるだろう? それまでに成してきた業を、罪の重さを認識した上で伝えることができるのか? そんな輩が伝える事実とはまさしく――それこそ風化した――思い出というものではないだろうか。伝えるその時までも罪に苛まれているのだろうか。

それは不幸としかいえないだろう。罪の経験が薄れ、やがて形骸化した思い出になったときに人はその過去を話すのではないか。経験と思い出の違いは、そう、現在に過去が生きているかどうかの超えがたい隔たりがあるのだ。

右手に残ったエネルギー。この身体の至る所に今まで成してきた業が経験として生きている。いやむしろ、自分の経験のほとんどが罪といってしまっていいほどに業を重ねている。この経験は、いつか思い出に変わってくれるのだろうか?

右手を握りながら、思わず自嘲する。そんなことはあり得ない、と。時間の経過とともに経験は思い出へと変化するが、その経験が絶え間なく続いていってしまうとすれば――経験は重なり、思い出にはならない。

不幸なことに、それは圧倒的に罪の経験において多い。幸福な経験が続くだろうか――もし続いたとすれば、それは稀に見る幸運といえるだろう。なぜなら幸福な経験とは自分以外の他者に依存する部分が大きいというのが顕著であるからだ。自分でのみの幸福は自己達成の幸福といえるにしても、それよりは社会的達成の幸福のほうが人は幸せに感じやすい。つまるところ、他人に依存する事象が何度も再現されることは稀なのだ。

逆に罪の経験はどうか。まさしく幸福とは逆に自分に依存する部分が大きい。だからこそ、経験として残るのは罪であり、思い出として残るのは幸福といえる。しかしたとえ経験を忌み嫌ったとしても、経験がなければ生きていくことはできない。それは矛盾だろうか? 罪に苛まされながらもその罪が自分を生かしてくれているという。そして生きるために罪を重ね、老いて自分の罪を嘆く。矛盾、といえるかもしれない。定め、ともいえるかもしれない。それこそ人間の業なのかもしれない。

だからこそその業を嫌い、自らの命を断つものもいるのだろう。生きるために罪を犯さなければならないことに絶望して。ほとんどはそのことを罪とは思わない。自分の命のために、他の命を奪う。その行為に対して罪を抱く人がいったいどれだけいるだろうか? 毎日の食事、単なる営み、煩わしいという理由で虫を殺す人間が、虫を殺したことを罪に思うことは無いはずだ。なぜならそれが生きるための本能だからだろう。肉食動物が狩をするとき、いちいち獲物に対して祈りを捧げるだろうか。

人間にもその最も基本的な本能が残っている。生物だから当たり前ともいえるその本能。しかも人間は、生きるために必須のことではないが快適のために犯す罪を罪と思わないようにさえなっている。本能を拡張した欲望――それを罪と思わない限り、経験は思い出となる。ただ、それが悪なのかどうか、それはまた別の話である。悪とは、相対的な尺度に過ぎないからだ。人間の業を嫌う人間は、その感受性が人一倍強いせいであろう。理性という、武器であり拷問道具をもった人類ならそのような人間がいたとしてもおかしくはない。そのために命を落とすことになったとしても、それは業からの解放、といってしまえるのではないか。

閉じた瞼を開いて視線を後ろにやれば、その業に苦しむ少女がいる。仰向けに倒れてはいるが、物陰に隠れるようになっているので雨の心配は無いだろう。だがその表情はすぐれない、というのは一目で分かる。感受性の強いこの少女には耐えられない何かがあるのだろう。それが今も生きた経験となって――まるで宿主を食い殺す寄生虫のように――少女の身体を、精神を蝕んでいる。

「…………同じように――業を背負うものだから…………」

俯き加減に呟く。自分自身の場合は感受性が強いわけではない。ただ、時が重なり経験が重なりすぎたのだ。だから知ってしまっていた。少女の持つ業の苦しみ。悲しみ。怒り。そして、業を知ってしまっても生きろという運命への恨み。

その業を知るにはあまりにも若すぎた少女は、一体何を思って生きていくだろうか。自分が生きていくとき、傍で支えてくれる誰かに気づき、それを受け入れていけるだろうか。

遠雷が静かに響き、雨音が再び思考へと浸透してくる。生きる力とは何か、その答えを出すにはそれでもまだ時間が足りない。

踵を返し、膝を折って少女を抱きかかえる。この小さく軽い身体で背負う罪とは――それほどに重いものなのだろうか。

人それぞれの罪がある。誰かにとっては罪であっても、それ以外の人間には罪でないかもしれない。罪の質も量も、全てその人にとっての意味しかなく、誰かがそれを肩代わりすることはできない。そして罪を重ねれば重ねるほど、その罰も重くなっていく。十字架を背負って生きていくという過酷な天罰が。

罪を乗り越えて生きていくことで得られるものは? それは償いなのだろうか。ただ苦しむだけなのか。それが生きとし生けるものの命題。迷い、ひたすらに生きていく中で答えを求める。見つからない答えを。

「………………だからだというのか? 死への願望は…………」

その質問に答えるものはいない。しかしそれは独白ではなかった。明らかな、誰かへの問いかけ。かぶりを振り、天を仰いでうめく。

「だがそれは…………答えにはならないんだよ…………。そのことは、君も分かっているはずだ……」

その言葉を合図としたかのように、光が呟きを包む。そして一瞬遅れて、その姿も虚空に消える。わずかに残った残像も、雨の中へと溶けていった。

力の終焉が分かる。身体が感じている。不可視の世界から情報を破壊する圧倒的な暴力が、血を満たした獰猛な獣が眠るように収束していく。それとほぼ同時に猛烈な睡魔が襲ってくる。疲労、というレベルではない。確実に命が削られる感触が残っていた。

右腕にはほとんど感覚が残っていない。わずかに、傷口から流れる血が痛みを教えてくれるくらいだった。ハンタースーツが完全に破れて、正視し難いほどの無数の傷から溢れ出ている鮮血が。このまま放っておけば血圧低下によるショック死を起こしかねないほどであるが、それ故なのか痛覚が麻痺してしまっている。

だが今はまだ倒れることはできない。やらなければならないことがあるのだから。それに、この程度の流血は今までに覚えていないほど経験してきていた。

「レスタ…………」

左手をかざし、回復テクニックを唱え――ぽぅっと、柔らかい光が右腕を包む。腕は鮮血で赤く染まっているが、大方の出血は止まったようだ。相変わらず睡魔が襲ってきてはいるが、痛覚が回復してきたことでさほど抵抗するのに苦は無い。幸い、神経まで傷ついていなかったようで指もすぐに動くようになってくれた。神経まで傷が達していた場合はすぐに処置を施す必要があるし、最悪の場合は腕そのものが無くなる。

そこでようやく、ヴィードは立ち上がることができた。それまではさすがに立つほどの力が残っていなかったのだが。辺りを見回すと、何かしらの残骸がそこらじゅうに散らばっていた。区画の一部も破壊され、ショートした部分から時折火花が飛び散っている。

そしてその中に。

「……おい、レイン。大丈夫か」
「う…………ん…………?」

壁に寄り添うように意識を失っていたレインを、肩を叩いて起こす。見たところ大した傷は負ってなさそうであったし、もしかしたら脳にダメージがあったかもしれないと思ったが返事をしたところからするとそれも大丈夫だったようだ。内心、ヴィードは安堵のため息をついていた。

しばらくレインは目を開けても焦点があっていなかったらしく、ぼんやりとこちらの顔――か、もしくは他の何かか――を見ているだけだった。強い衝撃を受けたせいで、それまで自分がどういったことをしてどういう状況に置かれたいたのかをすぐには思い出せないのだろう。

「レイン、ここがどこだか分かるか?」

特に強く抑揚をつけたわけでもなく、ごく普通にヴィードは質問しただけであったが。ぼんやりと、どこを見ているのか分からなかったレインの焦点がだんだんと定まっていく。虚空をさまよっていた視線が、ゆっくりとこちらの顔へ。それと同時に、レインの顔が蒼白になっていく様が面白いほど良く分かった。

「ひぃぃぃーーー!!!??」

恐怖で顔が引きつる、というのはこういうことをいうんだろうか――などと完全に気が動転しているレインを、なぜかひどく冷静な自分を感じながら見ていた。

レインは慌てて後ずさりをしようとしたが、すぐ後ろが壁であるということに気づき、さすがに強引に抜け出そうという気にはならなかったようだ。あとはただ、怯えた目でこちらの顔色を窺うように顎を引いて上目遣いに見ている。

ヴィードは左腕をゆっくり動かし――何かを覚悟したのだろう、レインが首をすぼめて目をきつく閉じる。ひっ、と息を呑む音も聞こえてきた。

しかしヴィードはそのまま掌を、ぽんと軽くレインの頭の上に置いただけだった。その瞬間、レインがびくっと身体を震わせるが、覚悟していた感触と違うことにすぐ気がついただろう。覗き見るように奇妙と不思議が入り混じった視線で、こちらに問い掛けてきている。

ヴィードはほんの少しだけ微苦笑を漏らし、静かに呟いた。

「分かっていたンだろ? ちょっとした悪戯のつもりが大事になってしまって…………。その責任を取らされるのが怖くて、とっさに逃げ出してしまった……」
「………………………………」

レインは何も答えない。が、わずかに頭を揺らす。それが肯定だということはヴィードもすぐに分かった。一拍の間を置いて、続ける。

「だが、それはしてはいけないことだった。自分にとっては冗談のつもりでも、取り返しのつかないことになるのは多い。お前のそのちょっとした悪戯が……ミシェールを苦しめてしまったことは事実なんだ。ほんの偶然が重なってしまっただけだとしても」

ヴィードもレインに会う前に、アルデバランと一緒にミシェールの見舞いに行っていた。そこでミシェールは何かにうなされ、うわ言を繰り返していた。それを見ているこちらが苦しくなるような苦悶の表情で。それを思い出し、ヴィードは小さく目を瞑ってかぶりを振り、

「……それはお前が悪かったんだ」
「……………うん……」

その声に、嗚咽が混じり始めた。今まで張り詰めていたものが突然消え去ったからだろう。怯えているときにあげた悲鳴とは違う、静かな嗚咽。

ヴィードも、不思議と落ち着いているのが自分でも信じられなかった。何がそうさせるのか――答えは見つからない。だが、それでもいいと思う。全てに対して答えが出るということは、逆に全く希望がなくなるじゃないか? そういうこともあるのだ、と。

レインの頭に置いた手を除け、隣へと腰を下ろす。暴力的な力が支配していた空間も、一度静まりを見せればどこにでも静謐な時の流れを感じさせてくれる。遠くに聞こえる甲高い機械音でさえ、静寂を誇張するようであった。少し薄暗いこの空間が、哲学的な神秘さを醸し出す至上の場所であるかのように。

レインの嗚咽は止まらない。無理に止めるものも無い。ただ好きなだけ、涙を流せばいい。

「少しだけ、バカな話を教えてやろう…………」

そういったヴィードの言葉は、語りかけなのか独り言なのか判然としなかった。

「親のいうことも聞かず、ただ自分勝手に過ごすことがどういうことか理解できない若者は普通の老人にしかなれない、とか言っていた誰かの話だ。経験のない若者には何が良くて何がダメで――その価値観がはっきりしていないからなんだろうな。でもはっきりしていないからといって、何でもが許されるというわけじゃない。罪とは何か、老いてから気づくだろうな、そういうヤツは。勿論気づかないやつもいるだろう。そういうヤツは幸せだ。自分だけの幸福が手に入れられるだろうから。んじゃ幸せだからいいのか? というより、そんな幸せでいいのか? 俺には分からないがな。だけどもし、自分の心の闇に気づいたときは耐えがたい恐怖が待っているはずだ。それがバランスってもんさ」

ククッとヴィードが苦笑めいた乾いた笑いを漏らす。

「そしてたいていは何かをきっかけにして気づく。誰にだって後悔する過去があるはずだからな。その後悔が罪となってのしかかる。その記憶が風化してそれ自体過去になってしまうまで。そのときまで、ずっと罪に苦しめられるのさ。じゃあ罪から逃れる方法は? ……簡単なことだ、謝って済むなら謝ってしまえばいい。それより謝ってもぬぐいきれない罪が多すぎるんだよ。だから俺は生きるのが辛くなったのさ――ってな。そういうバカなヤツの話だ」

ヴィードが呟くのをふっと止めたとき、その場に静寂が訪れた。レインもまた、いつの間にか嗚咽を止めていたのだ。ヴィードは微苦笑を浮かべたまま、またその後を続ける。

「それでも無理強いはされない。泣いて笑って怒って反省して、墓に刻まれたそれがその人の生きた証だ、とかいった奴もいる。あくまで自由意志だし、罪を認めるには勇気が要るのは確かだ。だが、謝れるなら謝ったほうがいい」

そこでヴィードは顔を横に動かし、レインのほうへ視線を移して、

「……じゃ、ないか? レイン」
「…………………………うん」

少し赤くなった目を手でこすりながら、レインが静かに呟く。だがその声の弱さが問題ではなく、そのことを決意できたレインの勇気を褒め称えるべきであろう。ヴィードはそれだけの言葉に十分満足して、立ち上がる。パイオニア2へと戻るために。ようやく全てが終わったのだと実感しながら。

レインもそれに続いて立ち上がり――はっと驚愕の表情を見せる。

「ヴィード!? 何、その腕!?」
「ん? この血か? 出血は止まっているから気にすンな」

とはいうものの、しびれるような激痛は残っているのだが。あえてそれには触れず、軽く流しておいた。レインは何か腑に落ちないような顔をしながら――むしろそれが大丈夫ではないことに気づいているのだろう――しかし何も言わない。こちらへの気遣いかそれとも他の何かか。ふっと、ヴィードはレインからこちらの表情が死角になるように背を向けながら微笑する。

パイオニア2への帰還用転移テクニック『リューカー』を唱えながら、

「まぁ、後のお叱りはアルのほうから来るだろうし、俺がいえるのはここまでだな」

と、こらえきれずに悪戯っぽく笑うのを自覚する。その途端――こっちが言わんことを察して――レインの顔が蒼白になり驚愕に目を見開いて、

「ダメぇ!! それだけはお願い、勘弁して!!!」
「分かった。んじゃ、ミシェールにはしっかり謝っておけよ? だったら俺も何もいわねぇ」

そういいながらもどうであれ、本心では何も言う気は無かった。おそらくアルもこの一連のことについてほとんどを推測で把握しているだろう。それくらいのことは簡単に結びつけることができるからだ。だからだというわけではないが、言ったところでどうなるものでもない、というのが実際のところだった。たとえアルが確信を得たとしても、アルもレインには何も言う気がないのは分かっている。

本人が十分に反省したということさえ分かればそれでいい。ミシェールにちゃんと謝れば、自然とそのこともアルの耳に入るだろう。それだけで、アルも納得するはずだ、と。

ヒュッと風が流れるような音の一瞬後にリューカーが発動し、パイオニア2へと転送するゲートが開く。

「絶対だからね!? ちゃんと謝るから、言わないでよ!!」

と、何を急ぐのか、レインはさっさとゲートをくぐってパイオニア2へと戻っていった。

それを見送ると同時、肩の力が抜けていくのが分かる。なんとか無事収めることができた。その充実感が、今までの疲れと痛みを忘れさせてくれる。

「ま……最後はちょっと方便になっちまったかな……」

と、口の端を歪めて苦笑する。だが、それでもいい。きっかけがなんであれ、謝る勇気を持って欲しい。長く生きればそれだけ人生の業が増えるのだ。その先に生まれたものとしての、ちょっとした助言として。

人にそんなことを言える立場でもないけどな――と苦笑を自嘲に変える。だが誰しもが同じような悩みを抱えているのだから、誰が言ったとしても大差は無かろう。自分自身がまだその悩みの中にあり、そこから抜け出す方法さえ分からなくとも、少なくともその悩みを背負うな、できるだけ軽くしろとだけはいえる。謝っても謝ってものしかかってくる罪の意識に苛まされるという辛さは、誰もが持つべきものではない。

一度だけ天を仰ぎ、肩をすくめて息を漏らす。そしてヴィードもレインに続いて、パイオニア2へのゲートをくぐった。

病院という雰囲気は、やはり何か落ち着かないものを感じさせる。数日間、ここにいたとしても慣れることはなかった、そんな空間。この独特の雰囲気はなぜこうも変わらないのだろうか? 伝統? 習慣? 理由は分からないが、病院なんてどこも似たようなものである。つまるとこ、そこに不慣れなものにとっては奇妙な違和感を感じるところなのだ。それだけいえばどこでもそうかもしれないが、病院はことにその傾向が強いように思う。

人の出入りが激しいのもその違和感の理由の一つだろうか。テクニックなどによるナノマシン技術が発達して医療が格段に進歩したため、入院するほどひどい病気や怪我――といっても大方の怪我は一日もあれば治ってしまうが――に冒される人などほとんどいない。術後のメンタル・ヘルスを考慮して数日ほど入院する患者もいるが、ほとんどは一週間も――いや3日もかからないくらいだ。

そのペースで考えれば比較的ゆっくりだっただろう。今日は自分が退院する日であった。ミシェールは数日間あてがわれた個室を眺め、一つ嘆息を吐いた。もうここにはほとんど何も残っていない。あるのは自分の身の回りの、ほんとにごく私的なものだけ。着替えの服やその他の荷物は、叔父が既に持っていってしまっている。

だけどまだ持っていかなくてはならないものがある。それは、自分の記憶。形のないもの。だが、とても大切なもの。しかし、それがこの数日間で見つかることはなかった。それだけがここを離れる心残りとなっている。叔父に先に行ってもらい、自分ひとりでここに残ったのも――全てそのため。

「けど、あんまり意味はなかったかな…………」

また一つ、嘆息する。今度は音もなく、ただ吐息だけが口から漏れていった。仕方ないかな――と、そう諦めをつけて部屋を出ようと顔を上げ――。

コンコン、とノックされたのはその時だった。

「………………? どうぞ?」

叔父が戻ってきたんだろうか? しかし、戻ってくるほどのこともないはず。だが音もなくドアを開け、入ってきた人物は思ってもいなかった相手だった。

「よぅ、随分時間がかかるじゃねぇか。何やってるんだ、こんなところで?」

予想外の人物の訪問に、思わずミシェールは目を見開いていた。

「ど、どうしたんですか、ヴィードさん!?」
「どうしたんですかって、お前の退院祝いに来たんだけど」
「え……?」

それはさらに思ってもみなかったことだった。しかし目の前に差し出された数本の花の束は、間違いなく本物だろう。芳醇な香りがあたりに漂い、こちらの鼻腔をくすぐってきている。久しく嗅いでいなかった花の香り。だけど、どうしてだろう? たった一度、一緒の依頼を受けただけだというのに。

「……どうして俺がここに来たのかって顔をしてるぜ」
「え!?」

突然自分の考えを言い当てられ、思わずミシェールは驚愕に声をあげてしまっていた。微笑したヴィードの表情に、どうしていいか分からず困惑する。ヴィードはこちらの手に花束を握らせながら、

「まぁ、俺はそれほど薄情でもないんだがな。仲間が怪我したら見舞いに行くのが当然だろ? …………ってもやらなくちゃならんことが多くてなかなか来れずに、結局今日までずれ込んでしまったんだがな」

少し照れたように口の端をあげるヴィードの表情が、なぜかミシェールにはすごく眩しく見えていた。この人は自分が持っていないものを持っている、と。それが羨望だということまで思いは至らなかったが。

そこでミシェールは肝心なことを思い出す。そう、相手は自分が忘れてしまったことを知っているはず!

「あ、あのっ!」
「ん? どうかしたか?」

病室を見回しながら手持ち無沙汰に髪を撫で付けていたヴィードが手を止め、少し怪訝そうな顔でこちらを見返してくる。身長差があるせいでミシェールはわずかに顔をあげなければならないが、見下ろされることにやや気後れを感じていた。

「ヴィ、ヴィードさんは以前、一緒に調査に来てくれてましたよね。そのとき、私は一体何をしたんですか? なぜか知らないんですけど、そのときのことを全く覚えてなくて………………」

ヴィードは片方の眉を寄せて困ったような表情を見せる。

「レインから何も聞いてないのか?」

「えぇ……。なんだかいきなり泣きつかれちゃいまして。どうしていいのか分からず、とりあえず慰めていたんですけど、何で泣きつかれたのかよく分からなくて。結局そのことを一言も話してくれませんでしたし、私も聞きそびれてしまったので…………」

「…………っちゃー、レイーン…………」

と、ヴィードが両手で頭を抱え、天を仰いで困ったような声を出す。だがその表情は、先ほどより困っているようには見えなかった。ミシェールはそこで意を決し、

「教えてください、ヴィードさん! 私は一体何をしていたんです!?」

凛とした声が病室内に響く。しばらくは何の音もせず――ただ自分の心臓の鼓動だけが聞こえていた。大きな声を出したことと不安を声にしたという事実が、動悸を早めている。血液が、身体中を駆け巡って少しずつ身体全体が熱を持ち始めていた。

ヴィードも困ったように右手の人差し指で頬を掻きながら、ミシェールを見返していたが。

「…………まぁ、アルも納得していたしな……。レインにしろ俺にしろ、変わりはしねぇか…………」

少し目線を逸らして、ぶつぶつとヴィードが小さく独白する。さらに一度大きく天を仰ぎ、きっぱりと告げてきた。

「正直なところは、だ。レインが悪戯でアルコールを入れたメイトやフルイドを飲んで、酔ったんだな。多分アルコールにすごく弱いんだろ。ほんの一口か二口程度で足元もおぼつかなくなっていたからなぁ。記憶が飛んでしまったって、不思議じゃないがな」
「…………アルコール……ですか……?」
「そう。それもかなりどぎついヤツを混ぜたらしいな、レインのヤツ。もともとアルへの悪戯に仕掛けたらしいが、偶然アルが渡したものがその仕掛けたメイトやフルイドだったってわけだ。だからレインが謝りに来たってことさ」
「…………………………」

その意味を、最初は理解できなかった。時間が経過するにつれ、少しずつ頭の中に染み込んでくる。それとともに、自分の心の中に黒い感情――自己嫌悪の念がこみ上げてくる。悪戯とはいえアルコールを摂取してしまい、そして記憶を失ってしまったのだ。入院までして、人の手を煩わせて。ミシェールはそのことに対して強い自責の念を感じていた。

「…………それだけなんでしょうか……?」
「それだけって…………それだけでも十分大事だろうに。おそらくアルコールを摂取してもいいという年齢でもないだろうし、ハンターズの規則で任務中の飲酒は禁じられている。重度の規則違反に該当すれば、資格剥奪だってあるんだぞ?」
「それは…………そうなんですけど……。そうじゃなくて、私は――自分がどういったことをしてきたのか、どういった人間なのか分からないと不安なんです…………不安で、怖くて嫌なんです…………!」

それが今の自分の精一杯の叫びだった。自分の一部が欠けること。それが何よりも恐ろしい。知らないほうがいい、知ってしまったらきっと悲しむ――という理屈はよく分かる。だが、悲しみも怒りも、何かが欠けているという不完全さはもっと悲しいのだ。

だが果たして、ヴィードは一言呟いただけだった。

「……………………んじゃ、どこまで知れば不安が消えるんだ?」
「…………え?」

意外なことを問われた気がした。だが、その質問に対してすぐに答えが出てこない。今まで考えた事もなかった問い。

ヴィードはそんなこちらの様子を見て、自らの答えを導き出した。

「俺は過去から自分自身がどういう人間なのか、そんな答えを出せるほど成熟していない。知らない過去など忘れてしまったのも含めていくらでもある。過去が必要ないとは言わない。だけどそんな自分を含めて、今を考えることができる」
「…………過去を知らないほうがいいというんですか?」
「それは違うな。それに、自分自身で既に過去を知る方法を見出しているはずだ」

それはミシェールにとって非常に意外な言葉だった。知りたかった過去を知る方法を自分自身が知っている? そんなことがあり得るのだろうか。

ヴィードが不意に視線を外し、遠目にものを見やるような表情で、続ける。

「俺は運命論者ではないがね。だが『天は自ら助くるものを助く』というのはあながち外れてはいないと思っている。抽象的だが、事象を受け入れる力がなければその力が身につくまで手に入れることはできない。無理に手に入れても潰されるだけさ」
「……私は………………過去を知る権利がないんですか?」

その言葉にヴィードがこちらへ視線を落としてくる。深く、静かな眼差しで。

「いっただろう? 既に方法は知っている。だが過去を知るにはまだ――そうだな、心の柔軟性が足りないというべきか? 無意識のうちにその方法を遠ざけている」
「無意識のうちに?」

思わずオウム返しに聞き返していた。気分を害するかと一瞬考えたが、ヴィードはそんな様子さえ微塵も見せず、ただ頷いただけだった。

「要するに、まだそれを知るには若すぎるってことさ。理性が分からなくても本能は知っている。受け入れられるようになれば、自然と分かる。過去も今も、本当に大事なものをありのままに受け入れられるようになれば。だから、そう生きることに怯えて泣かなくてもいい。自分を殺して泣くんじゃなく、自分に素直に泣けばいいのさ。そうすれば怯えることがなくなって受け入れることもできるから」

言われて初めて、ミシェールは自分が涙を流していることに気づいた。嬉しいとか悲しいとかそういった感情に支配されているわけではなく、何か不思議な心の温かみが分かる。なんなんだろう、これは? 初めて感じた――いや、とても懐かしい感覚。よく分からない。だけど、不安も恐怖も、あの気持ち悪くさせる黒い心のわだかまりも何も感じない。なぜだろう? 答えは出ない――けど、安堵できる……。

ヴィードが苦笑しながら踵を返し、病室を後にしようとする。ドアのところまで歩みを進めると、肩越しに振り返ってこちらを見やり、

「罪と悪を見極めろ。それだけの心の強さを手に入れたとき、汝は生きることを悟るだろう――俺の言葉じゃねぇ、古い哲学の言葉さ。でも、励みにはなるだろ?」

と、少しだけ笑みを見せて部屋を出て行ってしまった。ミシェールはしばらくそのまま呆然と立ち尽くしていたが、

「…………ありがとうございます…………」

その小さな花束を抱えたまま、ただ深く御辞儀をしていた。静かに。涙を流しながら。


ホログラフに映し出された今後のスケジュールを確認しながら、ヴィードはひたすらコンピュータのキーを叩いていた。うんざりするほど報告しなければならないデータが溜まっているのだ。あの二人の事後処理で――もっとも、それはアルのほうがそれで忙殺されているだろうが。聞いた話によれば、18時間もその処理に追われていたこともあるらしい。その二人を思い出し、少し手を止めて、苦笑する。

「……なんだかんだいって、見捨てンのはできないよな……。俺も説教好きになったもンだ」

あの多感な年代では無理もないだろうが――とは、声に出さずに心のうちで呟く。そう考える自分に、どこか虚しさを感じていたが。

生きることに絶望する前に、支えあう仲間がいればいい。誰もが何かしらの罪を背負うこの世界で、人は支えあって社会を作る。自分を認め、他人を認めれば、少なくとも生きることに絶望はしなくても済むのだから。認める力。それが勇気。迷いながら生きていく中で、それを少しだけでも忘れさせてくれる時間があれば――たぶん、それが励ましとなるんだろう。

「孤独に苦しむよりはナンボかマシだしな」

その皮肉に、思わず自嘲する。休めていた手を動かそうと再びキーを叩き始めたとき、不意に電子音が鳴った。それに気づき、ヴィードが手を伸ばして音声ネットワークのスイッチを入れると、耳慣れた声が飛び込んできた。

「ン。あぁ、お前か。なんか用か?」
「なんか用か、じゃないわよ。ついさっきギルドのほうから連絡があって、また損害賠償金が追加されたって言われたのよ!? どーゆーこと!?」
「…………………………………………」

「とりあえず、そっちにも連絡は入ってると思うけど…………。どうせそんなお金は払えないだろうから、こっちで立て替えておかなきゃならないのは分かってるんでしょ!? いい加減にしとかないと、ホントに怒るからね!!」

と、明らかにキレた声で、声の主が一方的に回線を切断する。かなり乱暴に。だが、ヴィードの耳にはそれは届いていなかった。なぜ…………なぜ、こうも社会は人に冷たいのだろうか?

よく分からない真理に頭を悩ませ、ヴィードは目の前のホログラフに映った損害賠償金の総額を見ていた。

しくしくと痛む胃を押さえ、キーの上に突っ伏して――心で――泣きながら…………。

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