Phantasy Garden

「……で、結局どうなったわけ?」

ぽつりとレインが呟く。話し始めてからどれくらいの時間が経っただろうか。レインとヴィードはお互い座ることもなく、話を始めた位置から微動だにもせずに立っていた。話の所々を端折っているのでたいした時間が経っているはずないだろうが、それでも小一時間にはなる。

「さぁな…………俺もよく覚えてねぇんだ。気づいたらメディカルセンターのベッドの上にいた。ハンタースーツの緊急回避用転送装置が働いたのかとも思ったが、俺はたいした怪我をしていたわけでもなかったしな。聞いた話では、俺自身がミシェールを抱えてメディカルセンターに入ってきたというが……」

レインの呟きに、ヴィードも低い声を漏らすように答える。レインはくしゃっと前髪をかきあげ、少しうんざりしたような面持ちで、

「それで…………一体何が言いたいわけ? 状況がどんなものだったかはわかったから、そろそろ本題に入ってくれない?」
「あぁ、そうだったな」

ヴィードは腰につけてあったアイテムボックス――当然もう水は捨てている――からディメイト、ディフルイド、トリメイト、トリフルイドと、見慣れた4つのアイテムを取り出した。そのうち一つをレインに放り投げ、レインはあっさりとそれをキャッチする。

「………………これがどうしたわけ?」
「それが問題のミシェールが飲んでいたアルコール入りメイト・フルイドだ。入手経路を調べようと思ったら、アルが知っていたよ。自分が手渡したものだろうってさ」

ぴくっ、とレインの身体が一瞬だけ痙攣し、その場に硬直する。アル――アルデバラン。過去にレインを養っていたアンドロイドのレンジャーである――の名前が出てきたからだろう。レインはアルに対して頭が上がらないのだ。一応、ヴィードもそれを見咎めてはいたが、構わず続けることにした。

「それでアルに事の経緯を話すと、アルコールを入れたようなものを渡す気はない、何かの間違いだ――とか言ってたな。ま、あれだけ姪を可愛がってンだからその姪の立場が危うくなるようなことはしないだろ。実際、その話をした瞬間に様子見から戻ってきたメディカルセンターに回れ右で飛んでいって、その事後処理に奔走しまくっていたからな」

レインはディメイトを見つめたまま、彫像のように微動だにしていない。が、その額に脂汗のようなものが浮かんでいるのが分かる。もちろんヴィードはそれも見抜いていたが、とりあえず話の終わりまでは続けた方がよかろうと、そのまま続ける。

「じゃあ、いつアルコールを混入されたかになるんだが、最初から間違って混入されていたってのは考えにくい。ショップで販売されるものは、一度完全に成分検査を受けるというのは一般には知られてなくとも一部ではよく言われている」

それは事実だった。ギルドは公表するほど重要なこととは考えていないのか、意外と新米ハンターは知らないことが多い。度々、古株のハンターズから指摘されてきたことであったが、そもそも知ろうとする人が少ないというのが現状のようだった。最近はそれに対する情報の開示を行うなどの準備もすすめられているというが。まぁ、今のヴィードにとってはあまり関係ないことである。

「これはまぁ、ラグオルに放置されているコンテナに入ってるメイトやフルイド類にも言えるだろ。それに、これはアルがショップで購入してきたと言ってたしな。別に金庫に入れていたわけでもないし、買ってからミシェールに渡すまでの間に混入されたと考えるほうが自然なのは分かるよな」

あえてここでヴィードは、レインに問い掛けるようにきってみる。レインははっとしたように辺りを見回し、最後にこっちに一度だけ視線を向けてから露骨に目を逸らして、

「え、あ? うん、そうだね……」

本当に何がわかっているのかちょっと聞いてみたい衝動に駆られたが、まぁ続けることにしよう。

「ここからは俺が独自に調べていったんだが、そのアルコール――というか酒にはちょっと覚えがあって、前にアルと一緒に飲んだことがあるのを思い出したんだ。俺自身は場所忘れていたけど」
「へ、へぇ…………そう……」
「アルにそのことを話して聞いてみたところ……そうそう、どっかの孤児院とか言ってたなぁ」
「そ、それで…………?」
「何の用事だったかは忘れたけど。そこを調べていくと、いろいろ面白いことが分かってきてな」

(――そろそろ立場の危うさにも気づいてきたようだな)

完全に上の空という状態になってしまっているレインを見つめながら、ヴィードは自分の髪を掻きあげるように額に手を当てる。

「その孤児院に、お前も居るんだってな。おまけにベスもそこに勤めているとか。アルの話を聞いてある程度思い出したことは、その酒、その孤児院の応接室に接待用としてあるものだそうだ。銘柄としてはアルコール度数が高いので割と珍しいそうだが、あまり厳重に注意もしていなかったようだ。応接室自体も、もともとが一般の客をもてなす場所だから警戒すべきような場所でもないし」
「そ、そうねぇ…………」

レインはあさってのほうを向きながら、口笛を吹いていたりする。ちなみにベスというのもレインやアル、ヴィードの知り合いであり、ハンターズとして活躍するフォニュエールというニューマンのフォースである。

「んで、ちょっとベスに事情を聞いてみたんだが、数日ほど前にお前が孤児院の応接室にいるのを見たそうだ。ベスから見れば別に珍しいことでもないし、そのときは大して気にとめていなかったそうだが。だが、おかしなことにここ最近は来客という来客はほとんどなかったというのに、応接室のその酒の量が異常に減っていた。そもそも一般客に酒を振舞うようなことはしないとベスもいっていたし、個人的に酒を愛飲している人は応接室のような誰でも入れる場所に酒は置かないんだと。となると、施設の職員以外の誰かがその酒を何らかの理由で飲んだか何かをしたということになる」
「か、かもしれないね…………」
「さて、そこで問題だ」

ヴィードは持っている3つのメイト・フルイドを放り投げては受けてと弄びながら、視線をレインから外してさりげなさを装う。ここでそう装ったところでどうとなるわけでもないが、時間にちょっと間を持たせたかったのだ。その分だけ、レインにとっては長い苦痛になってしまうわけなのだが。

「今分かっていることは、1.ミシェールの持っていたメイト等にアルコールが混入。2.そのメイトはアルからもらったもの。3.アルは厳重に保管していたわけでなく、親しい人なら誰でも混入の機会はあると思われる。4.そのアルコールは普通の酒と比べてアルコール度数がきついので、割合珍しい。5.ベスの勤めている孤児院で、その酒が応接室に置いてあった。6.しかし、最近になってその酒が異様に減っていることが分かった。7.施設の職員にも酒の愛飲家はいるが、応接室などにそういった人たちのものは保管していない。8.酒の量が異常に減ったのと前後して、お前が目撃されている。ここから推測されることといえば?」
「……………………あ、あのねヴィード…………」

レインはヴィードの問いには答えず、何かを言おうとしながらも視線を落として言葉を飲み込んでいるようだった。内心ではヴィードも多少の怪訝を覚えつつ、表情にはそれとは出さずにわずかに眉を動かしただけで、聞き返す。

「………………どうした?」
「……………………」

レインは俯いたまま、ぼそぼそと何かを繰り返すように呟く。が、はっきりいってそれは独り言としか思えないほど小さい。よく聞く為に、足を踏み出そうと注意が逸れた瞬間、

「えいっ」
「のわぁっ!?」

何を思ったか、突然レインが持っていたメイトをヴィードに投げつけてきたのだ。しかもかなりの速さで。あまりの成り行きに思わず仰け反ってメイトをキャッチするも、すかさずかけられたレインの足払いは回避できなかった。バランスが崩れた一瞬の隙を突いてのことである。正確に軸足を払われたヴィードはなす術もなく、体を地へと叩きつけるしかなかった。一応受身は取っているが。

「っつー……。レイン! いきなり何しやがる!?」
「ひー、ごめんなさいー! 悪気はなかったのー!!」

といいつつ、素晴らしい速さで危機を離脱していく後ろ姿に説得力は乏しかったが。というよりあらかじめ逃げるだろうなぁとは思っていたので、それ自体にはさほど驚きはしなかった。すぐさま起き上がり、その後姿を追跡する。

「待たんかコラ! こちとら被害総額が首を三回転半させてもでてこねぇくらいに借金つもっとるんじゃ!!」
「そんなの知らないわよ!!」
「間接的にお前が犯人なんだぞ!?」
「何の話よ!?」

レインには意味不明だろうが、ミシェール救出のために不可抗力で壊してしまった――と、ヴィードは言っている――装置や資材の損害賠償金請求書がヴィード名義で届いていたのだ。表向きにはミシェールは精神疲労による昏睡、という風になっているため、その状態で責任能力があったかどうか。といっても、実質破壊したのはヴィードなので、なんともいえないのだが。反射的に請求書を投げ捨てようかななどと思いついたりもしたのだが、それで借金がなくなるわけでもないので仕方なく友人を伝に支払っておいたのである。ヴィードとしては、酒を混入した真犯人に多少でも負担してもらわないと生活が苦しい。心底。

「というわけで真犯人の捕縛に力が入っているんだ!!」
「なにが、というわけでなのよー!?」

微妙に会話が成り立っていない会話を繰り返しながら、広場を縦横無尽に動き回る。しばらくは広場だけの追跡劇であったが、やがてその足はある一点へと目指して走り出していた。すなわち、ラグオルへと続く、あの鉄の扉の向こうへと。

「逃げるんじゃねぇぇぇ!!」
「ひーん!!」

ある意味壮絶な顔をしたヴィードに恐怖を覚えたのか、少し上ずった声になりながら全速力で目的地へと駆けていく。目的のところまで後少しとなったとき、異様な二人組みを見咎めた見張りの軍人たちが、多少驚きながらもレインの行く手を塞ぐように立ちはだかる。

「そこの二人、止まりなさい。ハンターズライセンスを提示しなければ――」
「お願い開けてぇぇぇ!!」
「待てコラァァァァ!!」

軍人たちがお決まりの文句をいおうとするもその気迫と声量に圧倒され、思わずたじろぐ。半ば反射的に――本能的とも言うだろうか――開閉スイッチを押し、まだ開いてもいない扉のぎりぎりの隙間からレインがスライディングで入っていった。ヴィードはさすがに一旦停まり、扉が開くのを待ってからその先、ラグオルへのテレポーターを目指す。もちろんのことだが、そこにはレインはいない。

「先にいかれたか……」

テレポーターの転送範囲を眺めながら、ヴィード。厄介なことだが、ラグオルのどこに降り立ったのかが分からないためすぐに追跡することができない。間違えて他の場所に行ってしまえばそれだけロスになる。しかし、かといって流暢に待つわけにもいかない。どうしようかとヴィードが思案に暮れていると、

「あの、もしもし…………」
「あ?」

ギロッと威圧感たっぷりの視線が、十分に怯えまくった軍人をたじろがせる。しかし一応は勇気が勝ったのか、少しだけ――いやかなり長く――ためらうそぶりを見せてから、

「……ハンターズライセンスを…………」
「あぁ…………」

それどころではなかったが、ライセンスを出すのは義務である。追跡する手段も思いつかないまま、ラグオルに降り立つわけには行かない。しかし、そこでとあることにふと気づき、

「そういや、転送装置の記録ってのは残ってるのか?」
「へ?…………え、あ、いや、たぶんあると思いますけど……」

普段なら高慢な態度が鼻につく軍人なのだが、こっちの気負いに完全に圧倒されてしまったらしく、言葉も丁寧調になっていたりする。ヴィードの質問に困惑しながら、横にいた同僚に助けを求めるように視線を移す。

「今すぐ分かるか?」
「あ…………え、えぇ」

同じく視線を移された軍人も、少しだけ怯えているのがありありと見て取れた。もしかしたら、この二人は最近ここに配属されたばかりの新人なのかもしれない。いやそんなことはどうでもいいのだが。その軍人は軍専用の特別携帯端末を開き、テレポーターの転送ログを調べているようだった。

「あ…………えと、坑道区域第31ポイントですね……。たぶんそうだと思います…………」
「そうか。手間をかけたな」

と、一言謝辞を述べるとすぐさま翻して転送装置へと身を躍らせる。そういう情報を他人に教えていいものかどうかと考えたりもするが、さして重要でもないのだろうと勝手に決め付けておく。ともあれ、さっさと転送先指定位置入力を済ませ、転送装置を起動させた。

「あ、あの……!」

まだなにかあるのか、と少しだけ苛立ちを覚えながらヴィードが振り向く。転送のための情報が入りだしたので、もう時間はわずかしかない。

「結局あの――」
「あぁ――ただの真犯人狩りだ」

その意味を推測して一言そう告げると、フォトンの光に包まれヴィードの姿が虚空に掻き消える。転送装置が起動したのだ。

「…………………………いや、ハンターズライセンス…………」

当ての外れた返答にぽつりと呟いた軍人の言葉も、光の渦に飲み込まれるような儚さで虚空へと掻き消えた。

そうしてこの新人――ヴィードのカンも半分は当たっていたと言えるか――の軍人たちは、早くもこの任務の過酷さを思い知ったのだった。ハンターズは変わり者が多い。その噂もいっそうの信憑性を高める。が、それはまた後日の話である。

息苦しい。その一言に尽きる。五感が総動員して脳に疲労を伝えている。もう動けない、いつまで酷使する気なんだ、と。まさか自分の五体が脳に対してストライキを起こしているわけではないが、なかなか思うように動いてくれなくなっているのが時間の経過にともなって分かってくる。意思とは無関係に。止まればどれだけ恐ろしいことになるか、十分説明しているのに。怒りをぶつけたところで自分の身体だ。結局、自分自身の不甲斐なさに嘆いているのとたいした変わりはない。だがそれでも、逃げなくてはならない。

上気した顔を、いくつもの雫が伝っていき、そしてそのまま滴り落ちていく。心地は悪い。運動による汗とはまた別のものも混じっていそうだ。規則正しく聞こえる自分の足音から、まだ足は動いてくれているようだった――感覚がだいぶ鈍り始めているので、正直自分が今どこで何をしているのか、説明できないかもしれない。窮地を理解してくれるのは足だけか。ただ単に慣性で動かしている感じしか残らないのだが。それを理解といえるかどうかは不明である。忍び寄る危険に対して、今は対抗できるだけの装備がない。迂闊といえばそうだが、誰がいったいこれを予測できたというのだろう。

唯一の方法としては、逃げる。それだけしかない。だがそれで一時的に態勢を立て直すだけの時間を稼げるかもしれない。逃げつづける、というのはその意味するところを鑑みると不可能に近いのだから。態勢を立て直したところで対抗できるかどうかは甚だ疑問なところであるが、今はそれを考える時間と力がない。余計なことを考えて脳へと送ったエネルギーを消費するわけにはいかないのだ。エネルギーを求めて体が動き、しかしその動きでエネルギーを消費する。一見矛盾した要素だが、時間という属性を交えれば意外とパラドックス的に成立するかもしれない、と無駄にエネルギーを使ってしまうのは考え物だったが。

身体が休息を欲している。足にもそろそろ裏切られる時が近づいている。動きたい自分と休みたい身体と、混在した二つの意識に翻弄されて、身体に激痛を覚える。

「…………はぁ…………はぁ…………」

そもそもなぜ自分はこんなことをしているのだろう。あえて自分を苦しめる必要があるのだろうか。

自虐的な考えが頭をもたげる。直面している危機に対して、疲労感が限界を超え始めているのだ。このままでは脱水症状まで引き起こしかねない。だがそれでも、事の発端としては引くに引けないところである。意地という奴だ。それがなかったら、それこそ最初からこんなことにはならなかっただろう。つまるところ、行動に一貫性を示したいだけかもしれない。突然自分から舞台を降りるのは嫌なのだ。そうやって逃げ出したい欲望さえも意地に抑圧される。いやむしろ、誰かに舞台から引きずり落とされるのを待っているのかもしれないのだが。しかし、それを認めることもまた自分の意地が許さないというのは厄介なことであった。

自分が納得できる終わり方。今はどこへともなく走っているのだが、もしかしたら身体はそれを求めて動いているのかもしれない。だが脳がそれを理解しない。脳と身体が切り離されたような感覚。おぼろげに見えるのは光と闇が入り混じった世界だった。あぁ、そうだ。自分はそういうところへ来てしまっていたのだ。だがしかし、今はその視覚でさえあまりあてにはならない。混乱した状態では、最も信用できない五感であるからだ。一番頼りになるのはこの現実を伝えてくれる触覚。律儀にもいちいちに悲鳴をあげてくれる体の各部分を見下ろし――実際は見ていなかったが――正常な身体というのを皮肉に伝えていることを認める。いい加減脳が痛覚を拒否してくれてもいいものではないか、などと希望的な観測を思いついたりもするが、それはそれで危機に陥る。

だが、ふとこう思う。自分の後を追うこの恐怖は、疲れを知らないのだろうか、と。恐怖に疲れも何もないと、いつもなら一蹴しているところだが、現実に自分がそういう立場に置かれるとそんなことも考えてしまう。なるほど、恐怖が疲れを知っているかどうかとはナンセンスなようではあるが、もっともなことだ。

ただその恐怖が何なのかという本質的な疑問がある。自分の中から湧き出る懐疑的な感情がそうさせているのであれば、その恐怖はまやかしのものだ。今すぐに足を止めたって、襲ってくるものは何もない。ならば絶対的な危険か――それは逆に意志をもたない。例えば極刑者に対して罰を執行するその物体――断頭台や絞首する縄などは生物ではない。執行を見届ける執行人はその罪人に対して僅かながらの同情を寄せてくれるかもしれないが。ありふれた日常のものでさえ、ときとして命を脅かすような凶器に成り得るというのに、それに意思があればもう日常のものとして扱うことは不可能だ。それは意志をもつ冷酷な殺人鬼となる。

では残る恐怖の対象とはいったい何なのか――。それは自分が罪を苛みながらにして襲いくる意思。罪悪感? それとは少し違うだろう。意味的に罪悪感とは苛んだ結果生み出された自分の感情であるからだ。もうすでに結果が出ているのだからある種の罪悪感ともいえるかもしれないが、しかし自分ではないほかの何かが――その罪悪感の代わりをするとなればそれはもう罪悪感とは言わない。

心臓が激しく鼓動する。身体は相変わらずエネルギーを求め、代償としての苦痛を与えてくれる。理不尽な要求だがそれに従うしかない。後を追うこの恐怖も同じだけのエネルギーを求められ、苦痛を与えられているはずなのに。ひたひたとそれこそ単調なリズムを刻む闇は一向にその気配さえ見せない。

姿無き力。無固形の相手。大にして小であり、始まりでありながらも終わりであるもの。それが恐怖。一切が全てであり、付け入る為の隙を与えてくれない。もしかしたらそれを死というのかも知れない。逃げられない存在でありながら、人が最も忌み嫌う存在。そんな最低なもの、と嘲笑うことで少しでも自分を隠そうとする。しかしその行為さえ淡々と飲み込み、等しく訪れる存在。

今追われているのはそんなものではない――が、それに近い存在かもしれない。いやむしろ自分がそう思いたいだけで、事実は違うかもしれない。何も分からない。結局、そこにたどり着く。

分かることはないが、走らなければならない。ずいぶんと不公平な世界だ。急いでいるときでさえ――それが故なのかもしれないが――思考は堂々巡りする。考えがまとまらない。まとめるための力がない。それを供給するものもない。

立ち止まりたい。分からない。休みたい。恐怖。疲労感。迷い。矛盾。絶望。……死。

ただそれらをひたすら振り払い、まさに無我夢中で走りつづけるしかなかった。

(――厄介なところに逃げ込んでくれたもんだ……)

転送装置を背にして、無機質な空間に顔を顰める。内心ヴィードは臍をかんでいた。坑道区域第31ポイント。古株のハンターズなら、思わず顔を顰めてしまいたくなるところだ。新米ハンターズは、逆に怪訝な顔をするだろう。そこに何があるのか、実際にいかなければ分からない。

エリアレベルSS級といわれるそこは、第30ポイント以下のレベルと比較して異常なほどの調査難易度である。あるひとつを境にレベルBからレベルSSと変わる様は、数値だけで判断するには危険すぎるのだ。そこに出現するほとんどの敵が、ほぼ全てのテクニックに対して耐性を持ち、攻撃を加えようと身じろぎもせずに向かってくる。ある意味、攻撃の隙がない。反撃を覚悟で、というのは新米ハンターに見られる浅はかな考えだ。その反撃ひとつひとつが、死神の大鎌と同義だといってもなかなか理解を示さない。しかし、実際に幾人もの熟練ハンターズが護衛する調査団がラグオル転送後わずか数分で全滅したという話は、新しくはないにしろその脅威を伝えるには十分だった。

射程外から攻撃を加え、接近を許す前に終わらせる。それが調査難易度S以上のエリアでの常識である。常に退路を保ち、一撃も許さない姿勢でないと調査どころか生き残ることさえ難しい。退路を常に保つというのは、言い換えればいつでも逃げられるということ。それを人は臆病というだろうか。否。臆病とは勝算があってもそれを実行しないことである。勝算がないのに実行することは無謀である。引き際を見極めることは戦略である。退路の確保は戦術であり、常に相手より優位に立つために戦況を動かすことは戦略であり、それを駆使するのは戦いである。それができなければ、その先に待つのは等しく死、だから。

しかし、ヴィードにとって射程外からの攻撃というのははっきり言って難しい。有り体に言えば、慣れていないのだ。レンジャーほど銃器の扱いには優れていないし、フォースほどテクニックも扱えない。そもそもここの敵にはテクニックがほとんど皆無だというのは前述のとおりだ。ハンターは前衛で敵の注意をひきつけて戦わなければならないことが多い。そうしないと、レンジャーやフォースの役割を潰してしまうことになり、かつ自分の役割も存分に果たせない。それは生と死の駆け引きにおいて、致命的なミスになる。ゆえに自然と前へ進んで、最も接近した形で相手と対峙する。そしてハンターはその形を最も得意とするのだ。もちろんその場合は後衛からの援護を期待しながら、決定打となる攻撃を放つ。だからこそ、最も危険の多い位置にいなければならないし、危険だからこそ戦いの勝敗を握る鍵となる。リスクとリターンは裏表の存在である。

だが今は、全てを一人でこなさなければならない。援護は皆無の中で、さらに人を一人追わなければならない。これはどう贔屓目に見ても浅はかなことだった。一度パイオニア2に戻ったほうがいいのではないか。頭のどこかがそう告げる。自分の都合を考えればそれが一番賢いといえるだろう。

(――だがもしそうしてしまったらどういうことになるか? あるいは追っていったらどうなるのか?)

血の上っていた頭が少しずつ冷静になり、あらゆる状況に対してシミュレートを行ってみる。レインはおそらくこちらが追ってきていることに気づいているはずだった。ハンターズに標準装備として配布されているレーダーには対人センサーも備えられている。ゆえに、それがハンターズであろうと軍人であろうと人を感知すればレーダーに表示されるだろう。索敵範囲はエリア単位が限度であるし、その表示されたものが誰なのかということまでは分からないが、レインが自分の置かれている状況を鑑みて表示された人物と接触することは極力避けようとするはずだ。

もちろんのことながらヴィードも当然同じレーダーを持っている。レインの位置もある程度分かっている。だがこのレーダーはマップチェック型であるから、自分のたどった道しか表示されないのだ。道を誤ればそれだけレインと距離が開いてしまう。逆にいえば――道がひとつしかないとは限らないが――レインから見れば、こちらが正しく追ってきているかどうかをすぐに確認できてしまうのだ。そのため、たとえ正しいルートをたどったとしてもレインに追いつくのは至難のことである。その通路を塞いでしまえば、容易なことではないが追撃はかわせる。途中で分岐が増えればそれだけ追跡に失敗する可能性が高くなってしまう。

だが直接の追跡による危険はそんなものではなく、むしろ心理的に追い詰めてしまうということのほうが重大だ。追い詰めた結果、自暴自棄になって自分を見失ってしまうのが一番怖い。そういう状態では正常な判断を下すことが難しく、エネミーの襲撃にまともに対応できない可能性が高いからだ。

しかし、だからといって戻ったとしても、それがいったいどういう風に状況を変えるというのか? 自分が追跡を諦めてパイオニア2に戻れば、果たしてレインも同じように戻ってくるだろうか。あの性格を考えると、到底考えられないことだ。

「ちぃ……」

つまり、どうあがいてもまずいことになる。それだけは認めざるを得なかった。

今こうなってしまった理由も、第3者から見れば滑稽なことだろう。子供の喧嘩と比較してもさして変わるものではない。単なる意地とプライド――あとは、ほんのちょっとした生活苦――といったところだろうか。解決方法として他人に頼んで仲介してもらうというのはひとつの方法ではあるが、状況を作るのにかなり苦労しそうだった。そもそも、それらの方法は時間がかかりすぎる。今の状況をもっと冷静に見ろ。果たして時間があるといえるのか?

その答えはノーだ。熟練者にさえ危険と言わしめるこの区域で、冷静さを欠いているものが生き延びることは難しい。ましてレインは一人しかいない状態である。逃げるためと突っ走っているとするなら、いつどこで不意打ちを受けてもおかしくはない。

直接的に連絡するのはどうか。例えばメール等の連絡で。しかし、それは相手に依存する部分が強い。こちらからのメールにしろ、誰かに仲介メールを送ってもらうようにするにしろ、胡散臭さが払拭できないところが辛い。とくに単純な言葉しかつづれないメールとなると、白々しさが出てしまうのは仕方がないことだった。ゆえにこういったとき、メールという手段は火に油を注ぎかねないもどかしさがある。

どうすればいい? 直接追うのは不可。時間が経ちすぎても不可。連絡手段はなし。人の手を借りるのは難しい。

(――どうしろってんだ、クソ…………)

ヴィードにもこういう状況に追い込んでしまった負い目があるため、状況を放棄するわけにはいかない。常に冷静でなければならないのに、迂闊なことだったと過去を呪ったところで、現実が変わらないのは何度も経験したことだが相変わらずバカなことを繰り返すもんだと自嘲する。まさかこうも立て続けに人を追うことになるとは思ってもいなかった。だが、事態を収めるには――。

ヴィードは一つ大きく息を吸い込み、音もなく機械的な床を駆け出す。分の悪い賭けになるかもしれないが、レインを追うことが最も確実に事態を収めることができる。ただし直接ではなく、間接的に追うのだ。あえてルートを外れて、相手の先に回ることができればいい。うまくいけばパイオニア2に戻ってくれるかもしれない。その分危険も増える上、そのルートが行き止まりだった場合は別のルートを探さなければならないのが難点なのだが。思惑通りに事が運ばないのは世の常である。だがとるべき残された選択肢だというのも否定しがたい事実だった。

(――いつもないような気がするんだけどな…………)

と、憂鬱に自嘲する。自分の勘違い、思い過ごしだと言い聞かせながら、ヴィードは次の区画へと足を踏み入れる。油断なく辺りを見回すと、すでに戦闘が終わったという感じがした。焦げ臭い、機械系エネミーが焼け付いた臭いを発している。いうまでもなく、レインが破壊していった痕だろうが――足のない、ギルチックの上位種である坑道採掘用ロボット――ギルチッチをこの数分で倒してしまっていたことがヴィードにとって驚嘆に値することだった。テクニックを駆使しなければ、ヴィードでも単独での破壊は難しい。しかも被攻撃後の反動がほとんどないために、間合いの取り方や攻撃のタイミングがギルチックとまったく違うため、慣れるまでに時間がかかるはずである。レインのレベルからすれば、そう頻繁にきているはずもなく――それこそ単独行動などしたことはないのではないかと思うほどであるのに。ヴィードも調査難易度S以上の単独での調査は数えるほどにしかない。

率直に言えばここでの戦闘経験が圧倒的に不足しているはずなのだ。それでもここのエネミーに対抗できるとすれば。

(――天賦の才ってヤツか……)

エネミーの残骸の間を駆け抜けながら、苦笑する。その才能を発揮できるかどうか、それが才能を所有する唯一の証明となる。証明できる者と証明できない者。拒みつづけて自分を傷つけることになった少女と、その才能を如何なく発揮できる少女と、その二人が知り合いだったということがヴィードに裏表のような存在という皮肉な印象を与えた。

しかし、いつまでその才能が味方してくれるのか。もっと皮肉なことは、戦いにおける才能というのはしばしばその所有者を裏切るということだった。それは戦いという特異な状況がゆえなのか、その才能をもつものがそれに頼りすぎるのか、あるいは慢心してしまうのか。理由は定かではないにしろ、先人の足跡を紐解けば、わずかな裏切りが歴史を大きく変えるような戦いでさえも左右してしまうということは明白な事実である。

今はそんな大それた状況ではないのだが、個人の生と死を分かつ状況にはあるのだ。むしろ政治的な臭いが常に付き纏う歴史の出来事より、身近な知人の生命が脅かされているというほうが恐怖を煽る。言うなれば、その才能とは戦況を優勢に傾かせる強運なのかもしれない。運無き者がいくら技術を持っていたとしても、流れ弾に運悪く当たってしまえばそれで終わりなのだ。大局的にはその流れ弾を当てた人物のほうが戦いにおける才能というものを持っていたのだろうとなる。それがまた、運であるということも。そして運がゆえに、裏切られるということも。

今はその運を絶やさないで欲しい。レインのツキがどの程度なのか知らないが、少なくともこちらが追いつくまでは。そういう自分が一番運がないんだろうな、とか思ったりすると少し悲しくなったりもする。いつもいつも、こうやってなし崩し的に当事者になっているのは果たして気のせいなのだろうか。

都合の悪いことは全部気のせいだ、と言い聞かせ、左右二つの扉の前で立ち止まる。どちらかひとつが、レインが通った道なのだろう。それがどちらか。迷っている暇は余りなかった。直感で左を選ぶ。完全なカン――ではなく、レインの相対的な位置から推測して右側の道を通っていったのだろう、と思っただけだ。あとはただ行き止まりにはなりませんように、と握りこぶしを額に当て、祈る。

「……………………ビーンゴ…………」

ヴィードの口から力ない声が漏れる。分かってはいた――分かってはいたが、現実を前にすると辛くなるもんなんだよな、と心の中で涙ながらに独白する。そこは寸分先も見えない暗闇であり、さらにその暗闇の中に無機質な殺意が存在する。その殺気は形を伴ってこちらを凝視してくる。暗闇の中の、小さな無数の光。経験から言えばそれはギルチッチの目に当たる部分だ。暗闇の中での行動にも支障がないように赤外線センサーが取り付けられている。それが、およそ二十。対になっていることから考えると少なくとも十体はいる。フォースやレンジャーの援護も全く無く、さらに暗闇の中での戦闘。気分は重くなるばかりだ。

そしてこちらの存在に気づいたのか、その光が動き出す。プログラムされていない人間を排除するために。

「……………………ふっふっふっふっ…………」

ふつふつと押し殺していた怒りが甦ってくる。なぜこの世界はこんなに理不尽にできているのだろう。なぜみんなこの理不尽を我慢できるのだろう。わずかなモーター音しか聞こえないほど静かに、ギルチッチが向かってくる。その機械的な動作に――それこそ理不尽な――怒りをぶつけることにした。

相手の防御力を低下させる『ザルア』、相手の攻撃力を低下させる『ジェルン』を唱え、一気に臨戦体制へとかえる。戦いは必要最小限でいい。それだけを念頭におくことにして、ヴィードは襲いくる暗闇を潰しにかかった。

(……………)

白い壁。よく見えないが、壁のようなものが見える。なんなんだろう、あれは? 視界がぼやけてはっきりしない。なぜ? いつも見えていたはずなのに。なぜ突然見えにくくなったのだろうか。そもそもここはどこだろう。なんだか体が上手く動かない。動かせない。声も出ない。聞こえない。見えない。感じない。そのことに対して急激な恐怖を感じる。何も分からないという不安。そこから滲み出る恐怖。怖い。何が? よく分からない――けど、怖い――。

「………………っあ…………」

ようやく搾り出したかすれ声に、ミシェールは我に返った。だが、自分が今どういう状況に置かれているのかを理解するのにはさらに数秒を要したが。メディカルセンターの一室。壁だと思っていたのは天井だった。そう――自分はメディカルセンターのベッドで寝ていたのだった。簡素な病室である。自分の寝ていたベッドの脇にちょっとした棚と少し大きめの椅子がある程度で、他には何も飾りが無い。個室のようなので、他に人もいない。小さな明り取りの窓から見慣れたフォトンの光が漏れてきているが、ただそれだけであった。

清潔そうなシーツを押し上げ、上半身を起こす。着ている服はメディカルセンターにある病人用のものだ。視界がぼやけていたのは、少し眼の周りが濡れているので理由は分かる。自分はここで寝ていたのだろうか? それにしてもなぜこんなところに……?

「…………っ………!」

頭に鋭い痛みを覚えて思わずシーツに顔をうずめる。鋭い痛みは一瞬のことで、あとはずんと鉛が乗ったような鈍い痛みが襲ってくる。なんなんだろうこの痛みは? 自分の身体を意識してみると、胸の辺りで吐き気を催すような気持ち悪さもある。どうやらあまり身体の具合はよくないようだ。

「……ン……起きたのか、ミシェール?」

叔父であるアルデバランの声とともに、この部屋で唯一のドアが軋んだ音を立てる。ミシェールは慌てて痛みでこぼれそうになった涙を寝間着の袖で拭くと、気持ち程度に居住まいを正す。なんとなくそれが気恥ずかしかったので、そのまま俯いてしまったが。

叔父とはいっても、その関係を説明するには少し複雑だ。なぜならミシェールはヒューマンであり、叔父と呼ばれるアルデバランはアンドロイドであるからだ。普通に考えれば血縁関係に疑問を覚えるだろうし、義理の呼称としか思えないだろう。だが間違いなく、彼は彼女の叔父であった。

ほとんど音も無くドアを閉めて部屋に入ってきた叔父は、その両手に何かしらの容器のようなものを抱えていた。だいたいの予想はつくのだが、すっきりとした答えが出てこない。やはり頭がしっかり働いていないのだろう。なんとなく聞いてみる。

「……叔父さん……。それ、何ですか……?」
「ン? あぁ、これか?」

突然声をかけられたことに多少驚いたのか、ほんの少しだけ声音に戸惑いがあったのだが、頭痛に襲われているミシェールは気づかなかった。

「ただの水だ。まだ少し気分が悪いンだろ? ほら、横になってな」

叔父は脇の棚の上に水を湛えた容器を置いて、子供をあやすような手つきでミシェールの背中を支えながらゆっくりとベッドに寝かせる。そしてその水に浸したタオルをぎゅっと絞り、ミシェールの額にそっと置いた。かなり冷たい水のようだったが頭痛を忘れるのにはちょうどよかった。

そこでミシェールはぼんやりと経緯を思い出し始める。こうなった直接の理由をすぐには思い出せないので、ぼーっとする頭の中の記憶の糸を手繰っていく。始めはラグオルで森エリアでの調査の依頼に従事していたはずだった。そのときに――名前を思い出せないが、誰だったか同じ依頼を受けていた人がいるはず。記憶している体格だと男性だろう。その男性が原生生物たちの襲撃を受けてしまって――そうだ。そのときに自分は足首を捻挫したはずだけど……。

くっ、と足の先を動かそうとすると、鈍い痛みが返ってくる。なにかで固定されているような感覚があった。間違いない。足首は捻挫しているから、ラグオルには行っていたんだ――と、記憶違いではなかったことに少しだけ安心する。その後は? 確かディメイトだったか、ディフルイドだったかを飲んだような気がする。そして、えーっと…………?

その後の記憶が見つからなかった。どうにかして思い出そうにも、何も手がかりが無い。その後の記憶といえば、ついさっきのことだ。記憶を探りながらふと、何の気もなしに横を見やると、叔父が少し俯いて椅子に腰掛けている。腕を組み、何かを考えるように。アンドロイドは微妙な表情の変化を表現できないので普通は読み取れないが、ミシェールは長年世話になっている経験からそれが黙考の仕草だと分かっていた。

「………………叔父さん」

その言葉に叔父は少しだけ顎を動かし、こちらに視線を移してきた。

「……どうかしたか?」
「…………どうして……私、こんなところにいるの…………?」

呟いた後、しばらく沈黙が続いた。叔父は僅かな動揺の気配があったが、何も答えようとしない。先ほどと同じように、またわずかに俯いて黙考のような仕草で黙り込む。しかし、それが先ほどとは少し意味が違うことにもミシェールは気づいていた。

何を言おうか、と考えていることは明らかであった。しかし、その『何』が意味するところは、こちらが想像していないようなことかもしれない。すでに答えがあって、それをどう伝えるべきなのか――そのことに対して苦心しているような気配が見受けられるのだ。

結局はそれを上手く言い表すことを諦めたのかもしれない。叔父はひとつだけ嘆息し――少なくともミシェールにはそう見えた――ぽつりと今までより遥かに弱く呟いた。

「……多分慣れないハンターズの仕事で少し疲れていたんだろう。症状としては単なる精神疲労だと。それに伴って、頭痛や吐き気とかいった作用もあるらしいが…………ま、もう少し安静にしてりゃすぐに良くなるさ」
「………………」

ほんの僅かなことだが、ミシェールは苦笑めいた叔父の言葉になんとなく嘯いた調子があったような気がした。ただの気のせいだろうか? しかしそれにしては、叔父の言葉は返答になっていなかった気がする。上手くはぐらかされたような、そんな奇妙な違和感だけが残っていた。

ミシェールは叔父から聞き出すことを諦め、再び天井へと視線を移した。自分の不確かな記憶がどこまであてになるかは知らないが、とにかく自分は何かしていたはずなのだから。それは疑う余地が無い。記憶を忘れてしまうにしても、何らかの理由が――。

(…………記憶を、忘れる…………?)

「うっ………………!?」
「どうした、ミシェール。頭が痛むのか?」

叔父の声がする。突然こちらが声をあげたことに心配になったのだろう。

だが違う。違う。違う。これは頭の痛みじゃない。何か別の――言い表すことのできない痛み。

ぞくっ、と背筋に寒気が疾る。それにあわせて身体が、肩が、指が、一斉に小刻みに震える。身体的な痛みではない。震えるのも、この簡素な病室が患者のために室温調整を怠っているわけではない。ただ、どうしようもない不安――希望が摘み取られていくような感触。致命的な傷をつける個所に、ナイフが少しずつ刺さっていくような。いや、その表現はあまり正しくない。死が怖いわけではなかった。それがたとえ自分を包もうと、多分自分は平静でいられるはずだ。受け入れることもできる。怯えることも無い。その先にある絶対的な事実が理解できていたとしても、何の躊躇も無く、自分はそれを望んでいただろう。

だがその光景を今まで何度も見ていたはずなのに、一度として自分受け入れてもらえなかった。まるで、あちらが自分を受け入れることに対して拒否的な反応を示すかのように。そのたびに、自分の周りのものが――大切な何かが――代わりに包まれていき、奪われていった。それは理不尽ではないだろうか? こちらを弄ぶかのように、自分を取り巻く環境だけが変遷していくことは。自分だけが拒否される感覚。

疎外感。一言で言えば、そんなものだった。しかしそう感じることが、人間にとってかなり精神に影響することは周知の事実である。元来人間は群れで行動する動物であるのだから、そこから疎外されるということは、単に死を意味する。それが本当の――つまり、医学的な――死を意味するということではないのは分かる。たとえそうだったとしても、自分にとってどうだということもない。

ただ、疎外されても生きなければならない。周囲が変化していっても生きなければならない。それが痛み。死は受け入れられるというのに、周りが変わることを受け入れられないのは傲慢というだろうか。異質というだろうか。頑固というだろうか。

今まで見てきた人々は逆である人が大半だった。ほとんど、といってもいいかもしれない。いや、生物にとってそれが当然である。自分が死んでしまえば終わりなのだ。その後には何も無い。誰かが最期を看取ってくれようと、孤独に死を迎えようと、突発的な事故であろうと――その人にとってはたいした差ではない。そこにある事実というのは、その人がもう永遠に動かないという共通にして唯一のことだから。

その事実こそが、疎外されたものにとって悲痛であるのだ。悲しみを背負って生きなければならない。自分だけでも精一杯だというのに、さらに他人の悲しみも背負えと運命は言う。それらを一言の元にくくると――絶望、というかもしれない。

いつの間にか荒くなっていた呼吸をなんとか鎮め、なるべく意識しながら深呼吸する。深呼吸が終わったころには、自分が何を考えていたのかさえ覚えていなかった。ちらりと視線を移すと、叔父が心配そうな気配でこちらを凝視しているのが分かった。表面的な動作だけでは分からないが、こちらを気にかける様子が手にとるように分かる。経験、といってしまえばそれに落ち着く。だがずっとそのままにしてしまうのは、忍びなかった。

「……だ…………大丈夫……」

相手を心配させないように声を出したつもりが、かえって心配させることになってしまったのは明らかな失態だった。叔父のその気配は収まらず、むしろ大きくなっている。まぁ、病人の強がりの効果とは概してそんなものだが。

「大丈夫、じゃないだろ、どう見たって。少し待っててくれ、看護士を……」

そういって腰を浮かしかけた叔父の手を、我知らず、握っていた。すぐに叔父もそのことに気づいただろう。叔父の手と比べれば一回り二回り、もしかしたら半分近くかもしれない自分の手。その二つの手が重なれば、否が応でも弱さを印象付けられてしまう、そんな自分の手。

だがそれでも――それがゆえか――叔父を引き止めることはできた。静かに握り返してくれたその大きな手は、人肌の温かみがある。それがそうなるように造られた機構だとしても。普段なら無機質で物質的な硬さが伝わってくるが、今はそんなことはなかった。温かく、そして優しさのある手だった。

そこではじめて叔父が、握った自分の手を包み込むように両手で握り返しているのだと気づいた。叔父が何のためにそうしたかは分からない。だが、そんな理由はどうでもよかった。どうでもよかったのだ。ただそのまま、静寂を味わっていたかった。頭を横に振って――といっても頭痛のせいでわずかに顎が動いた程度だったが。その意味を理解してくれたのか、叔父は浮かしかけた腰をまた椅子の上へと下ろした。握った両手はそのままに。

しばらくはそのままの沈黙が続いた。何か唐突に話を始めることが罪悪だといわんばかりに、きっかけが訪れるまで待ち続けてしまいそうな雰囲気だった。音は全くといっていいほど聞こえない。最も大きな音源といえば、呼吸に震える喉と思えるくらいに静かであった。パイオニア2に騒音というかその類は騒音規制によってほとんどないのだが、知らないグループが内輪で話をしているのが耳に飛び込んでくるのが煩わしいと思えばそれは騒音といえるかもしれない。人の声すら騒音となる。そして、人はどこにでもいる。

しかし、ここはそれらとは隔絶された世界のようだった。まるでここが唯一パイオニア2で無音の世界と主張するかのように。病室なのだから防音設備があるのは当たり前かもしれないが、外界からのきっかけを待ち望むのはよほど鷹揚でない限り無理だろう。

その沈黙に耐えかねたのか、叔父は軽くかぶりを振って小さく嘆息する。そこに意図は読めなかった。ただそうしてみたというだけだとばかりに――事実そうだったのだろう、その後には何も続けては来なかった。

「叔父……さん……」

わずかに顔をあげて視線をこちらに向ける叔父に、ミシェールは既視感を覚えずにはいられなかった。

「……どうした?」
「…………少しだけ……思い出せたことがあるんです……」

それを聞いた叔父の目に微細な動揺の色が走るのを、なぜか直感的に見ていた。隠し事は、眼を見れば分かる――と誰かが言っていたような気がするのだが、そのことは思い出せたことが無い。

ヴィード。自分と同じ依頼で組むことになったハンターの名前。思い出してしまえば忘れてしまいそうなほど難しい名前でもないはずなのに、と自嘲する。それゆえに印象に残らなかったのだろうかと考えても答えは出なかったが。その人なら何が起きたのか知っているはずだ。そう、確か叔父の友人でもあったはずだし、叔父が知らないわけが無い。

「……ヴィード――ヴィードさんはどこですか……?」
「まぁ……リアルタイムで位置を把握しているわけじゃないンだけどな……」

そういって叔父が苦笑する。それは嘘じゃない。特別な何かを使わない限り、誰だって他人の位置を四六時中把握することはできない。当たり前のことだ。だがそれだけでは答えにならない。当たり前のことを言っただけでは、答えにならないのも当たり前だ。それを言うということは、つまりは何を意味するのか。

叔父は何かを隠している。少なくとも、答えを出すのをためらっている。答えそのものではなく、今が時期かどうかに迷っている。さきほどの疑念は、いつしか確信へと変わっていた。やはり自分は知らないほうがいい何かがあるのは間違いないだろう。それが何か。

「………………」

叔父も続きを続けようとはしなかった。ミシェールも話せそうなことが無かった。幾度目かの沈黙が、雰囲気を重くしているのが分かる。息苦しい沈黙。それはただの不快でしかない。

ミシェールも自分の記憶を思い出そうと努めていた。何度も何度も反復を繰り返す――その度に、自分を支えるものが崩れているような気がする。そう意識すると、白いはずだった天井に染みができるようにゆっくりと黒が混じりはじめる。闇が光を喰らいはじめる。感情が追い詰められていく。

そこで、かたかたと震え始めた自分の口のおかげで、自分が目を閉じ始めていたのだと気づいた。

「……怖いんです………………」
「…………怖い?」

「思い出せないことが…………忘れてしまったことが…………大切なものを置き去りにしてしまったような気がして……」

口から勝手に溢れはじめた言葉を、なぜかミシェールは他人事のように聞いていた。そしてそのまま続ける口を、止める気にはなれなかった。

「………………分からない…………分からないんです…………何もかも……。だから……だからこそ、それが……不安で……怖くて………………!」

最後のほうは自分でさえ何を言っていたのか判然としなかった。無意味な叫びだったかもしれない。何かに対する呪詛だったかもしれない。だが、自分を戒める言葉だったのは不思議と分かっていた。いずれにしろ声にはならなかったのだろう。叔父は微動だにせず、ただ静かな面持ちで座っていた。慌てた様子は微塵も無い。吐き出した言葉が、ミシェールの感情を揺さぶり続けていた。無言の慟哭が耳鳴りのように響いている。昂ぶる気持ちを抑えようと顔をシーツにうずめようとして――。

額に乗っていた水を含んだタオルが、頭を動かしたせいで自分の目を覆うようにずり落ちてきた。

「……俺は、お前の不安を肩代わりできない。恐怖を消すことも難しい…………」

風のように凛として、それでいて優しい声だった。初めて聞くような、数え切れないほど聞いたような、叔父の声。握られていた手が静かに自分の脇へと置かれる。

「だが、ずっと傍にいることはできる……」

そっと取り上げられたタオルの先に見えたのは、先ほどの声を視覚化したような様子でこちらを見つめている叔父だった。

「それでもまだ……不安か?」

ずれたときに崩れたタオルを綺麗に直し、また静かにこちらの額へと乗せられる。身体の震えは止まっていた。身体の内から聞こえてきていた慟哭も、言葉に揺られて昂ぶった感情も、それがまるで嘘であったかのように鎮まりかえっている。

何かを言おうと口を開くが、言うべき言葉が見つからずに意味も無く口を動かすことしかできなかった。言葉を忘れたわけではなかった。ただ、何かを伝えたかった。果たして叔父はそれを悟ってくれたのだろうか、後は何も問いかけない。

ミシェールは、今度は意識して自分の目を閉じてみた。何も見えない、闇。だが恐怖はもうない。自分の身体の感覚だけが支配する空間。視覚から解き放たれた世界。感情が興奮した余韻で、自分の身体が少しだけ火照っているのが分かる。その分、空気との接触で熱が奪われていくような冷めた感覚も冴えている。そう、これと似たような感覚。あの時感じていた感覚はそうだった。

雨の降る最中。燻った煙のような霧の先に、あの人は赤く濡れた剣を携えてじっと佇んでいた。熱に浮かされたような感覚の中で、その冷めた空気だけは覚えていた。誰だったかな、とその名前が思い出せない。さっきまで覚えていたような気もしたが。

なぜそこで佇んでいるのか。その赤いものはなんだろうか。どうして自分は倒れているのか。疑問は無数にあった。が、ひとつとして解決はしない。至極簡単であるはずの問いが、脳が理解を拒むように分からない。

熱がさらに激しくなる。そして意識の流されるままに、ミシェールは深い眠りへと落ちていった。

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